Hervey De Saint-Denys【エルヴェ・ド・サン=ドニ】“夢の操縦法(夢の実践的観察とそれを操縦する方法)
第3部・第8章,( 日本語版 p.326 ー p.329 ):
本書で語られた原理が適用される多くの夢の報告。眠っているときに私自身を観察し、夢を見たり夢を避けたりする方法について。
──《 私はまず秘密の階段のようなものを降りて非常に古い教会を横切りやがてブルターニュ地方の野外ダンスパーティーの入り口にいた。そこから私は木立の茂る並木道を辿ってさらに大きい別の庭園に、と言うより正真正銘の庭園の村に入る。つまり、塀と生垣に囲まれた庭のある無数の小邸宅が並び、小道がその間を階段のように縫っている村。私はその中の一軒が若い娘たちの寄宿舎に充てられていることに気づいた。娘たちは全員優雅で制服を着ていたが門を開け放したまま庭を散歩していた。私は彼女たちを一瞥して私の来た道を引き返した。私は再び野外パーティーの会場を抜けて古い教会を通った、私は私が降りて来た秘密の階段の下にいた。しかしながら、最初の2段〜3段がわかりづらくなって周囲の物が輪郭を失った。外界の現実性(その外界の意識が夢を見ていたことを気づかせる)が徐々に強くなったので、私は目覚めかけていることに気づいた。私はこれまでも何度となく実行してきたように凝視と想像を続けることで夢を継続させようとした。私は階段の下に(座り)動かないようにして私の右手に視線を集めた。私は私が眠り込んでしまったり目覚めてしまわないようにじっとしていた。そのとき、私の頭の天辺から爪先まで(特に背筋に沿って)電磁波のような、あるいは戦慄のようなものが通り抜けるのを感じたが、それは徐々に私を麻痺させ私の頭をぼんやりとさせた。酔いが回り始めたような感じだった。私が凝視していた手はそれまで色や形がはっきりしていなかったが、だんだん生き生きとしてはっきりと浮かんできた。私の手には光が当たっているようで、私の目の前の城壁の石も照明が当たったように細部まではっきりとしているのだった。私は思い切って振り向いた。地下の回廊は薄暗かった。私は目が覚めたが、どこまで同じ夢を見られるか確かめるために私は再び同じ道を通って同じ散歩をしようとした。そして私は同じ夢を見たのである。私は先程と同じように教会を横切り同じブルターニュ地方のダンスパーティーの会場を抜け木立の茂る同じ並木道に踏み込んだ。途中で私は夢を見ていることがわかったので、私はアルフレッド・モーリー氏の思想について考えた。彼の言う‘脳の一部が目覚めた状態’とはどんなものだろうかと私は自問した。このとき私は知力が充実していて私の推論することも記憶することもできると感じたので、私の脳全体が覚醒しているのでなければならないはずだと私は思った。
私が唯物主義理論について読んだことやこの夢について書き留めようとしたことが私の心に明瞭に現れてきた。私は目覚めているときに目に映る映像よりも夢に現れる映像のほうが押しつけがましくなく、私自身がそうしたいかしたくないかに由って自由に左右を見回して私のあちらこちらに視線を向けては私のさまざまな光景や映像を出現させるのだと推論したのである。たとえば、もし夢に現れた木の枝を折ろうと思えばその枝が折れる。私がそうしたくなければ、私は元のまま見ることができるのである。私にとって現実と夢との違いはどこにあるのだろうか? 私は思い出し推論し望んだり望まなかったりするが、私を魅了する幻想に翻弄されることはない。もし私の意志に実在の努力が伴わないなら、私の身体は思考に従わず、幻想以外には何も生み出さないという理由で特別であるが、心理的現象においては変わらないのである。こうして人々は虚空に夢を織る機織り機を動かすのである。
また、私が明晰夢を見ている時に欠かせないのは記号やイメージを生みだしたり神経繊維の運動を呼応させたりする思考であるのは明らかであって、モーリー氏が考えたように記号やイメージや神経繊維の運動が連携した思考を生むのではない。空想はここで現実生活のように自由意志を持つのであり、自発性は私の意志にある。
こうして私は私の夢の散歩の目的地に至る並木道を進みながら推論する。私は小さな庭園の村に到着するが、先程の道を見つけることができない。私の無意志的記憶の中に作った架空の道であるにも係わらず、また、あの寄宿舎が現れるかどうかという意味で新たな小道の迷路に迷い込みながら、私は先程見つけたあの寄宿舎を訪れようとする。しかし、私の夢の像が褪色し混乱している中で、私は麻痺の消失が始まっているのを感じる。私はまたも眠りを引き止めようと空しく努力をするが、数秒間以上に引き延ばすことはできない。現実感覚が先ず私の右手に戻った、その感覚はあっという間に私の全身に広がった。私は眼を開いてペンを取って直ちに記録したのである。》
以上の記録について付された匿名版の註:“ 私のノートから正確に抜粋した観察記録に、私はその後同じ夢を見てその同じ夢の風景を歩こうとした事が二度あったと付け加えておきたい。あの野外ダンスパーティーは見られるのだが、あの寄宿舎への道はいつも見つからなかった。そこで、私は何度も先に示したように夢で両目を閉じて( 私が再び見たいものを強く念じる )実験をした。こうして私は消えやすい幻想を二度呼び戻すこともできたが、これ以外の夢は私の思い出に不完全に刻まれたものであっても他の理由であっても私が見るや否やほとんど一瞬で消えた。私はそれらを捉えることができなかったのである。”