読書記録3: ドリームワーク / ロバート・ボスナック

私は一度も読者に向かって“あなたは私たちの話題を知って下さい!”なんて言い方は無かった。完全な個人であること,知らない。だから,時折“ 夢 ”が如何にも図々しかったように,私の否定形に正対するかのような難癖の数々はみっともなかった?(:プロセスワークのひとたちだったなら,私は路上“げらげら拍手笑い”こたちにはむしろそれら自体をできるだけ増長する(更に現象化,)それの原因正体が見えるまでかれらの望みを純粋にアップし続ければ良かった。)
[もし単に私の内面的問題だったとしたら,“ 覚醒夢イメージ療法 ”に拠るように,私は“要求している側”に栄養をたっぷりと与えてそれについてただ自己観察すれば良い。]
プロセスワークの動-点は自在である(療法というなら,ある症状自体が意識境界に現れる“ ドリーミング ”と同義だと。だが,私が“外界の彼ら”かどうかの手前/向こうに立たなかったなら,現象すべては“元の夢(神)”という対称であったろう。“ 集中される神 ”という焦点として? )

ボスナック氏の講演内容だそうだが,例えばユング先生にならってか“ 西洋錬金術図版を通じてドリームワークを説明する試み ”とは?なんのこと。象意やプロセスに則ることはそれ自体としての態度を必要とする。それが‘ 夢見る ’にとっての前進かどうか?

私はこの本を読みはじめて不意に‘ 私-自身との距離感 ’が肝要だと気づいた。もし,そこに私の意識的に投影されたもの(私の気づかないままに反転した)その物として読もうとしたらば,難しい。今私の中心がそこに対象目的自体として貼りついているか,より手前に,私の意図近くに在るか,あたかも視覚的な焦点と注意の方向に疑問を持ちながら(いま読んでいるのはいつの誰?)

訳者まえがきに,ドリームワーク概略として(簡略;)
1. 夢見手を夢-環境に連れていく( その場に身を置けるように手助けする。)尋ねてみる-‘ まわりは明るい? そこは広い? ’
2. 夢での出来事のあいだ,夢見手の身体感覚に焦点を当ててみる。もし恐怖で縮み上がって痺れて無感覚になっていたら,その感覚を感じながら入ってみる。
3. いろいろな感覚に焦点を当ててみる。
4. 夢人物や物に同一化してみる。その人や物の体験に入ってみる。
5. 同一化している人や物の感覚と,同時に,自我の体験している感覚を体験してみる。

3から5が面白いのでマーカーを付けてみた。よくわからないが,“ 私 ”ではなく環境の‘ 鏡体 ’だというのがボスナック氏のドリームワークという言い方らしい(既に‘ 内/外 ’の問題ではなかった-?)すべてに(対立無しに)同一化できるとしたら?
私はちょうど“ ジェネラティヴトランス ”という本に同時ざっと読みしていて(ミルトンエリクソンにまつわる面白いエピソード等の挿入は良かったが,NLP系の手順書きみたいな,)やや観念的すぎる面倒臭いやり方だと私は思った。[ 感覚と同一化という意味でなら,私は方法論の違いよりも“ 気 ”そのものに戻るのが良いと思った。(挿入:一旦これの書いたあとで,“ ジェネラティブ・トランス ”訳者あとがき(上地明彦)にも,簡単に“ 水面と月 ”が書かれて遇った(心身統一合氣道のたとえとして。)
その“ ジェネラティブ- ”本編には“ エネルギーボール ”というメタドが案内されているが,その方法も感覚的な東洋のメディテーションからの合成なのか(その文中中に底本や根拠が示されていない)不明であった。
私が覚醒夢見に“ 鏡面ボール ”を使おうと思いついたのは先週だったが,なんでか視覚的なスクリーン投射という方法自体は難しいわけで,“ 夢 ”現象のために予め象徴的表れの印象を用いなければならないだろう。私自身,特定の教えというものには傾けないので,個々のひとが自由に実践したりアレンジしたりできる方がいい。)
そう言えば,昔ムーブックスで高藤聡一郎の“ -仙道入門 ”に,“ 気のかたまりからつくった陽神を小さくしていって,いろいろな物体等の中に入ってみる ”という体験的なくだりが遇って,とても面白い内容だった。]

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