心理学的貧困 [要約2]/ ..下層にある心理学的形態 [続き要約; 夢想や幻覚,情念について]

..意識現象の数多くを個人的知覚として統合できていても( 時にはその意識野が限局され、)暗示や放心状態に陥り易い人たちと同じ状態になる。熟睡して放心状態となっている時、また眠りから覚めようとしている時、その精神は避けがたい意識野狭窄の時期を通過する筈である。夢の時期である。意識に断片的に現れてくるイメージはそれぞれはっきりしてはいない。まだ完全な動きとしても登場してきてはいない。このとき私たちはその曖昧なイメージに沿って手足を動かすことはdけいない。むしろ、それら断片的なイメージは幻覚のように外部に姿を表す。暗示に掛かった夢遊病者とは違って、さほど驚くことは無いし、自分が何を考えているのかもわかる。それでも力の減弱している精神では、解離した心理学的要素からなる自動症に従う。わずかな騒音、わずかな明かり、シーツの皺、身体の状態などが暗示作用を引き起こす。感情や情念を現す顔や手足の位置も、夢に一定の方向性を与え、それら全てが自動症として現れる。同様に私たちが目覚めている時でも、この種の心理現象は出現しているが、それに気付かないだけである。個人的知覚の外部で出現している活動として生理学的機能が挙げられるが、そのような機能の英知には誰も異議を唱えることはできない。ただ、私たちはこの器官の英知をどのような存在に帰属させたら良いのかわからないだけである。ここでは、個人の意識がその自動症の展開に身を委ねることもあるという事実だけを指摘しておきたい。
何かに没頭しているひとは(そうとは気付かないで額に停まった蠅を追い払ったり)聞いてもいない質問に答えたりする。クールランドの公爵ビレンのように、羊皮紙の紙切れを丸めて口に運ぶ癖を持ち、重要な書類を駄目にしてしまったひともいる。食卓で話に興じるあまり、会食者のグラスに溢れるまで水を注いだり、コップ一杯に砂糖を入れたりする..
それらは2つの特徴からなっている。(既に患者たちで見てきた、)系統性感覚麻痺と下意識行為の2つである。単なる放心状態は健康な人にも様々な契機で出現しうる。例えば患者と同じように、疲労や微睡み、半-睡眠による意識野の狭窄が挙げられよう。
「(メーヌ・ド・ビラン,)今日は1日中疲れていて元気が無かった。政府高官の屋敷で夕食を摂ったが、何もかも煩わしく、ときどき聾のような状態になっていた。陽気で軽快な世界の中で私だけが夢遊病者のようであり、自分だけがひとり取り残されているようで他の人たちの存在が疎ましく思えた。」..
しかしこれと同じような放心状態は、過度な思考集中、注意集中で生じることもある。それは思考を狭窄させているのではなく、思考の領域の位置をずらしているだけなのであろう。
..かなりの数の心理学的事象はそれ自身に身を委ね、それ固有の自動症の法則に従って展開してゆく。
過度な注意集中によるにせよ、放心によるにせよ、心理学的事象が断片化されると、夢想や幻覚さえも出現してくる。鐘の音がはっきりとした人の声に聞こえてきたり、頭に思い描いている人物が実際に見えてきたりする。また、唐突な振る舞いをしたり、大声を出したりする。このような精神反射が断片化した時や過剰になった時の様子は(既に見てきたが、)ごく正常な人の顔の表情にはっきりと現れる。動物では大きな役割を果たしているが、人間には稀だといわれる本能活動といったものを、そのような動きに結び付けることができるかもしれない。意識を本能の中に組み入れそれを何らかの心的メカニズムにすることは不可能であるが、その本能から知的かつ意図的な行為を組み立てることは、できなくはない。

本能活動は暗示に因って現れる行動に近い。その暗示に因る行動が、知覚という現象の顕れだったように、本能活動は動物的な意識的知覚に因ってコントロールされる活動であり、動物の精神全体を形成しているものであろうが、それは人間に於いては下意識の活動ということになる。人間の精神は更に高次の心理事象から形成されているものだからである。
人間の自動症的活動は、習慣や記憶といった現象の中に集中している。私たちの習慣や記憶が(私たちが現実に作り出す以上の)行動や連想を引き出していること、しかも、それらはしばしば意識や意思の及ばないところにある。意識された心理学的事象が消え去るようなことは無い。実際、私たちが記憶に保持しているものは、意識的に再発見することができる。習慣として残っている。ただ、それら心理学的事象は行動に移されるとすぐにも忘れられ、気づかれないままに過ぎてゆく。
..「(ジョフロワ,)習慣は器官を鈍くしたり鋭くしたりするように見えるが、事実は鈍くしたり鋭くしたりもしない。器官はいつも同じであり、同じ感覚がそこに再現してくるだけである。しかし、その感覚が魂の関心を引くとき、魂はその感覚に結びつき、それらの感覚を見分けることに慣れてゆく。そうでないときは無視し、それらを見分けるようなことをしない。」
このように多様な考えが記憶や習慣に託されていることは、意識に託されている以上にはっきりしている。たとえば、単語の綴りを忘れ、それを思い出そうとするとき、実際にペンを持って自動書記のように書いてみる。それは霊媒が霊魂に尋ねることに近い。いろいろな心理学的事象を自動症的な記憶に委ねて忘れていることができている。だからこそ、私たちは別の物事を意識して考えることができるので、そのあいだも忘れられている事象は規則性をもって潜在している。知的活動が同時的に為されていたのである。
「(コンディヤック,)……こうして、人間の中には2つの自我とでもいってよいものがある。習慣自我と反省自我である。..たとえば、幾何学者が何かある問題の解決に専念している時、いろいろな対象がこの目的に沿って動いている。パリの街角を歩くとき、習慣自我はその時々の障害物を避け、反省自我の方は問題の解決に没頭している……。習慣を超えてわれわれが反省する能力こそ、われわれの理性を生み出すものであろう。」
( この記述には隠喩的な真実以外含まれていないかもしれない。というのも、習慣として自動的に展開する自動現象は、正常な人に於いては、半-夢遊病状態で第二自我が形成されるような形で群化されてもいないし系統化されてもいないからである。)

( 続き;)

正常な人たちに見られる心理学的自動症で最も興味深いのは、情念(passion)であろう。それは一般に考えられている以上に暗示や衝動に類似しており、一時的であるが私たちを狂人のレベルにまで落とす。情念そのものは人間を原始にまで連れ戻すものである。意思によって、あるひとを好きになるということはできない。逆に、意思的な努力を試み(反省や分析を行っても)抗い難い盲目の恋愛感情を抑えることはできない。渇望や羨望に自分を駆り立てようとしてもそれを体験するということはできない。情念は、特異的な状況といった、ある一定の時期以外には現れてこない。普通、恋愛感情は誰もが曝される情念であり、15歳から75歳まで(人生のどこか、ある時期に)囚われるものだといわれている。しかし、私にはそれが正しいとは思われない。人間はどんな年齢でもどんな時期でも恋愛感情を抱くというわけではない。身体的にも精神的にも健康でどのような観念も完璧かつ容易に持てるにしても、また何らかの情念が生まれやすい環境に身を置けるにしても、情念そのものを体験することはできない欲望は理性や意思に促されるものでありそれを求めるときだけ人間を導き、それに拘らなくなると消えてゆく。逆に、肉体的疲労や過度の知的作業、激しい衝撃や長引く苦痛などの所為で人間は精神的な病気になることがある。疲弊し、悲しみ、放心状態になったり怯えたりして、考えをまとめることができなくなり、落ち込んでゆく。
更に、健康なときには何の刺激にもならない事柄が、病気に対する感受性の強まった時に再び現れてくる。
悪質な病気のいずれにも共通するものとして、先ず潜伏期がある。新しく芽生え始めた観念が意識の衰弱した夢想の中を行ったり来たりする。数日間は精神もその一過性の混乱から立ち直るようにみえる時期である。しかし、その新しい動きは下層で作業を成し遂げ、身体を揺さぶるだけの力を得て、個人的意識からくるものとは異なった動きを現すようになる。落ち着きの無い足取りで自分の思ってもいないところ──恋する乙女の窓辺──に来たことを知って戸惑い、日頃の仕事の最中でも絶えずその相手の名前を呟く。
「(デルブフ,)タバコの入っているポケットがいつものように私から離れた所にある。それが私を誘っている。すぐに立ち上がって無意識にそちらに向かう。私は自分の弱さに気づいて坐り直し、本を読もうとする。しかし、私の手は機械的にポケットの中のタバコの紙を探っている。そして腹が立ちそのタバコ紙の束を荒々しくポケットに突っ込む。」
これは失錯行為とでもいうべきものであろう。ただ、この種の情念は( たとえば固着観念がそれに応じた行動に移されて一先ずの満足を得たときには )解消する。意識層を揺さぶるような衝撃があれば消失し、そのような情念から解放されることもある。
情念について急ぎ述べてきたが、それは暗示に掛かった精神病者やヒステリー患者たちに見られるものと正確に同じものなのであろうか? 患者たちの場合、一時的な意識の減弱があって、判断や意思には統合できない観念が湧出してきたのであった。勿論、彼らとて、別の状態であればその行動を受け入れたりそれに抵抗できたりしたかもしれないが、その行動は彼らにとって異質なものであった。私たちは狂気がどんなものであるかを知るために(モロー・ド・トゥールのように)ハシッシュを使うつもりは無いし、使うまでも無い。自分が全く狂っていなかったと誇れる人などはどこにもいないだろうから。

私の心を分割する2人の人間の葛藤は色々な宗教書や哲学書の中にも記載されている。
「いろいろと観察を重ねてきて、私は、人間というものが魂と野獣とからなっているということを知った。──この2つの存在は全く別のものではあるが、相互に──一方の中に他方が、また他方が一方に重なる形で──嵌まり込んでいるので、魂が野獣と区別されるためには、魂が野獣の上に立っていなければならない……。ある夏の日、私は宮廷の中庭に足を運んだ。午前中はずっと絵を描いていて、その絵のことを考えながら、魂は自分を王宮に連れて行ってくれる野獣に全てを任せていた。絵画は何と崇高な芸術であろう、自然の光景に触れたのだ、魂はそう考えていた。このような想いに耽っているあいだ、野獣の方は勝手な動きを始めていた。どこに行こうとしているのか、わからない。いつもと違って中庭の方ではなく、左手の方に進み、魂がその歩みを止めたときはもう王宮に近いオーカステルの門のところであった。野獣がひとりでこの美しい婦人の家に入って行ったら、どんなことが起きただろうか。それは読者にお任せするしかない……。普段通り私は野獣に昼食の用意を命じた。パンを焼き、それを切るのは野獣の役目だ。美味しいコーヒーも用意する。それにも魂は口を挟まず、ただ野獣がしていることを眺めているだけである……。私は炭火の上に火箸を横に置き、パンを焙っていた。魂の方がぼんやりと旅をしているあいだ、炉の炭火が真っ赤になっていた。──可哀想に、野獣は火箸に素手で触れた。そして……、私は指に火傷を負ってしまったのだ。
.. いつのまにか私はオーカステルの肖像画を手にしていた。そしてもうひとりが肖像の塵を払っている。この作業は私の野獣には静かな喜びになるらしい。そしてその喜びは、広大な空を眺めて我を忘れている魂にも伝わってくる……。いろいろな光景が無から現れたり消えて行ったりする。星が天から落ちてくるように魂が降りてくる。その魂は、もうひとりが恍惚としているのを感じ、その恍惚を高め、それをともに感じるようになっていた。..
ジョアネッティ(召使)は本当に正直な男だ。彼はいつも魂の旅に付き合ってくれる。もうひとりが犯す無分別を笑うことも無い。もうひとりが勝手に動き回っているときも、しっかり見張ってくれている。そのもうひとりは2つの魂に導かれているといってよいほどだ。もうひとりが服を身に着けるときなど、ジョアネッティは、そのひとりが靴下を裏返しに履こうとしていること、ベストを着るまえにジャケットを羽織ろうとしていることなどを、私に知らせてくれる。帽子を被るのを忘れたり、ハンケチや剣を忘れたりしたときなど、屋敷の廊下を走って追いかけてくるジョアネッティを眺めて、私の魂は面白がっている。」..
これらの現象をこれ以上詳しく記述するのは既に述べてきた考察を繰り返すことになり、それは病気や夢遊病状態の考察になってしまいそうである。

下層にある心理学的形態[ 要約 ] / ..判断力と意思[ 要約; 判断の本質,表象と意思 ]

[著者]ピエール・ジャネ
[翻訳]松本雅彦,
心理学的自動症(みすず書房,2013)
L'Automatisme psychologique (1889,)