2018-02-15:
私は再び私の両足を立てはじめている。私は体の両側に感覚しようとして失敗した。私がこの中心でなければいけないように、この体にも中心から動けるものが最上である。私は“ 両足 ”で動かそうとしていたのだが、たとえば自転車うんどうの場合、私はサドルに掛けて両足開きで漕ぐよりも、股間にサドルを使わずに真っ直ぐ立って歩きだすときのように、‘ この中心( 力点的には両足-内側面に )’設定するだけで易しくなる( “ 両端に頑張る ”というような無駄遣いをやめる )。

“ 体外への旅 ”は一冊だけあった( タイトル検索ではリストアップされた。近隣の他の図書館での用事ついでに受付係にこれこれと言えば取り寄せもしてもらえた )。私の自転車うんどうルート沿い( 東山動物園-傍 )なので自由ヶ丘_精神医療センター前_東明町という例の上下練習用ルートで直行した。記録にこう書くとかなり素早い距離があるのと想われそうだが、実際には私は若者のような駆け足にはできない,私は拍車を使えないおばあさんの歩行速度程度だった。
“ 体外への旅 ” - 私はエピローグから読むという習慣がある。途中なんでかケンタッキーフライドチキンのあの匂いが想いだされた。偶々開かれるページ,そのロバートモンロー氏の日記本文に“ あの私の知っているゴムのような存在がひとつ、また私の背中に乗っているのを感じた。” - ( 私は昔この部分には読んだ筈だったのに )うわっ!と言ってしまった。これもやっぱり“ 振動 ”とか言っていたひとだ。
私はこのような著作等に‘ 夢見の記録 ’として括るのは間違いではないと思う。

2018-02-17:
○ 私のあの‘ 月面 ’イメージは、もはや直上の天と視界の殆んどに掛かる巨大さで、私が読書中の“ 月に照らされる砂漠( 砂漠の夢 - 前回参照 )”とは無関係だった。
“ 夢と砂漠 ”?…サン=テグジュペリがどうしたと書かれているところで私は退屈だ - 私の体の中心にみようとすると、呼吸 - 腹部が動いた。


2018-02-18:
○ 自転車途中、あの“ 夢魔 ”の絵画にベッド上の婦人に腰掛けているような姿に似た( あるいは古い教会建築の一部に付けられた彫刻のあれを想わせる )しゃがんで顔こちら向きに浮動の石製というイメージが遇った。私は敢えてそれに変形を施すようにして、直立するオスカー像のようなイメージに滑らかに代えた。
これとは別に、不意に私の両足もとに小さな翼など付きの4つの小天使たちという印象( 私はそれらに‘ 私を支える ’といってみた ),この印象として‘ みる ’ことができるか。

私がこのまえ久しぶりに懐かしいタイプの‘ 自覚夢 ’だったと言いながら詳細に記録記述できなかった夢がひとつあった。
私はこれについて‘ 夢との私の自覚という点では私が昔記したように確かではあったが、私の夢自体になんなのか問うたり調べたりするという当初の目的から視れば、ただ私がその場にいたというだけだ ’とも思った。これでは‘ 私の背中に韓国海苔が張りついている ’というのと同じだ。
私が憶えているのは、古びた、かつて映画館の待合ホールとして使われていたようにみえる、その通路上に半分回り込んだような形の階段とテラスという空間だった。その片隅には制服姿の警備員がひとり立っていた。私がテラスから見下ろすと、その壁面( その全面に古代遺跡の石柱等に遇ったような一定間隔の並列凹凸というデザイン )下半分から下隅に時間経過に因ってこびりついたような汚れがみえた。
次の室内はあかるくて、幼児たちが個々に玩具等や風船のようなもので遊んでいるようなところだった。私が歩いてみていると正面に30才代くらいの婦人ひとりが近づいた。特徴も好き嫌いも無いような普通の顔だった。私がなんと言ったのか( 私そこでは完全に夢だとわかっていた )、彼女は‘ あなたが言っていた、ユングというひとの… ’と要領を得ない、不確かな質問以前だった。


2018-02-19:体外への旅( その体の外旅など )/ ロバート・A.モンロー
“ 体外への旅 ” - 私はこのモンロー氏の“ 離脱時の性的衝動 ”いう言い方はその状態とは本来無関係だと思った。逆に、肉体を失うという不安の為に“ 性的 ”という熱が発生したといいたくなったのかも知れない。あるイメージとして保つためになんらかの衝動が利用されなければならないという課題なら、彼は単にそこにベッドと室内-天井ではなく自動的に“ お相手 ”も生成できたのでは? 室内に日常空間と思うがゆえに‘ そこにイメージングをしてみよう ’と言わなかったという、謂わば既成-受容-依拠の態度がこの初期のモンロー氏の記述にも当たり前だった。
そう言えば、楽しい体外離脱の有栖さんだったか、その昔の記録に“ 自身を女体とイメージしてそれで交接する ”というようなつくり方があった。もしアイドルや肉体性に観たりするなら( 間違いに )そのような自身の投影がある。それらはあたかも別の身体感覚さえ有しているかもしれないが、自身の意図的投影に過ぎる。
モンロー氏は外界との一定関係に基づいていたので、たとえば彼自身が“ ゴム ”になって他人の背中にくっついてみようとは想わなかったのだろう。
“ 身体 - 室内 ”という観念,この二重の媒体は“ 夢魔 ”第1章にても既に明らかだった。なにかが行われる為には機体もしくはその存在するための対象として二重の身体が必要とされるというわけだ。

2018-02-23:

私は“ 路傍-笑い ”には応じなかった。すべての依存は無意味だ( 路上でのどんな振りにも“ あの有名交差点 ”という不可解の劇場型と同-根があった )。
私は‘ 申し訳無い ’と心的交換した。これは以前‘ 疑念 ’をやめようとしたときと同じで、私自身には純粋な私以外なにも変な向きなど持たないというだけでいい。“ 笑った ”のはわたくしではなかった。
‘ 私はブリーダーなどしない ’ - こう言ったとき、私は私の声があのバリトンのときよりも低く発声されると気が付いた( だが、これがなんだというのだろう? )。

“ 体外への旅 ” - 私は著者当人のこじつけにはぜんぜん読み進めない。
この最初の本の執筆時にはモンロー氏は既に60才くらいだった筈。だが、どうして自身に“ 性衝動 ”いうがそれが作り方と言わなかったのだろう? 物理的世界ではないと述べながらまるで客観的にそれらと保とうとしたかのようだ( 私は他人と接触できたという説には無為と思う、そんな確認の為に時間を費やすなら無断だ )。
私も一度‘ 夢 ’では偶然青年のような姿がそこにみえたので、私はその両肩に私の両手を於いて‘ 君はどうしたいんだ? ’と訊ねたりした( その直前、わたしは‘ 幽霊 ’視てみようと言ってはいたが - )。
私にはモンロー氏の“ 出会い ”よりもその“ 無限に続く滑らかな壁( 穴 )”という表現の方がユニークだった。
〔 私は‘ 夢 ’だと言ったのに、なんで‘ これはいったいどうしたんだろう? ’という機械が無かったのか。 〕