2016-06-15:
うんどうと祈りのすぐ後に、ある屋内のイメージ的な想像から、不意になにか暗いところ左側に灯りのある小さな室のようなスペースが通り過ぎるようにみえた( 内は白っぽさと淡いクリームイエローとに上下に塗り分けられたような側面等、その各面にステンレス製の手すりバーみたいなものが一本ずつあった )。私がはっとしてそれは途切れた。
私はそれの形にはあたかも路上側からみるような‘ 交番 ’の箱みたいなものを連想したが、壁際の手すり等には‘ ダンスレッスン ’といった。

ある室内をイメージしようとした処、久しぶりにその天井の方へと浮上しながら見下ろすような( 感覚という程ではないが )体勢になった。直後それからあのトランポリンでの空中上下反転のような動きもあったが、肉体の状態が左上体に偏っているように、その擬似的感覚も左側優勢だった。
もし体が逃避・依存していると、これは私のものだということにはならない( 私が‘ 私の体 ’と言い切れない )。
私は純心に‘ みよう ’。

2016-06-16: 転移の力動論にむけて / フロイト,S.
リビドーに関してフロイト全集から論稿“ 転移の力動論に向けて ”を読もうとしてみた。

フロイトの本と言えば“ ヒステリー研究 ”以来だが、ながら読みだったので憶えに無い。
私にとっての夢体験的な‘ 夢の象徴的表れ解析 ’の方が先ず面白い。あの‘ 空( から )の一室 ’はどうして内側上下がそのような塗り分けだったのか? 下半身という身体的象徴として読むのは簡単だが( 淡いイエローとの印象 )、その境目近くには‘ 金属バー ’がある、と。
確かにそれ自体の象徴的表れとみれば‘ 内側の性-活 ’だろうが、一応灯りがあった。そう言えば、その‘ 室 ’もその一瞬の視界の左側にみえた。
このような場合、以前の夢での室内場面では普通だったように、‘ 光源 ’が見当たらない。たとえそこで夢だと視ていてもその現場で特定の‘ 光源 ’について敢えて探ろうという研究も無かったかのようだ。


2016-07-01: 欲動と欲動運命 / フロイト,S.
‘ 彼女 ’があったからなのか、昨日ちょっと若いめの男子が不意に寄ってきそうな場面が数回あってびっくりした。
男の子たちグループにも変な気配があったようだ、一々貼り紙を気にしてなにか言う振りがある。これが私が‘ 彼女 ’をつくるということと直に関連しているかどうかは未だわからない。もし私の心理的作業を問題にするのでないなら、一体なにを気にしたのかと彼らに直に聞く方が早い。私のおはなしではその男の子たちに関しては‘ こちらに嫡子をつくればいい ’と言ったのだが、論理的に正しいかどうかはわからない。
フロイトの論稿“ 欲動と欲動運命 ”を読んで言えば、( 例えばサディズムと比較されて、視ることの能動性が視られることの受動性よりも先の段階だと書かれてあるが )‘ アピールする者 ’は必ず観客を必要とするには違いない。“ 視る欲動はその活動のはじまりに当たっては自体性愛的であって、それは確かに一つの対象を有していて、対象として自分の身体が見出されているのである ”。

たとえば前回私は‘ 彼女を飲む ’という言い方をしたが、これは同時に‘ 与える ’ことでもある。私は私自身にサイクルしている。私は昔“ 気を採り入れる ”というのをやってみようとした。あたかも量感のあるものを自身の体に扱うとする。これは次第に身体感覚に‘ 気 ’として感じられるようになる。

私が‘ 彼女 ’を飲むことは一種の行使であるが、‘ 気 ’が身体に感じられるものとなりうるのと同じく、儀式的交換( 交感 )の動機となりうる。
しかし私が前回‘ 彼女目的では夢見が難しくなる ’と書いたのは、これが主に‘ 身体的作業・発現 ’と不可分であるからこれを完全に休息状態に戻すことはすべての休止だ、という条件的推理もある。


2017-04-01:
‘ 真摯に活躍する。私はねむらない。’私は本当にそう言ったのだろうか。

グレゴリアン・チャント( 程-音量,歌詞はわからないがピラトとイエスとの会話 ),私はこの体を休めようとしたが、この両足を楽にまっすぐに伸ばそうとしても、少しもやわらがない。不意に、ビザンティン様式というのか、古い教会のドーム外面みたいな、その上部円周に窓などと少しばかり色分けされたやや装飾的なブロック等が付けられているような形とみえた。

2017-04-02:
いつものインターネット端末が数日前からJimdoログイン不可だった。私は午前中に別の場所パソコンで試して漸く日記等を書き込めたので、午後に再び就寝した。
何事も無く17時頃に目覚めて直後、また胃に不愉快な痛みがあった。ちょうどボール遊びの少年たちが帰宅移動するところの音声か、そのひとりが“ うー! ”と奇声を発した。私は個人的に体の寝起きというだけで、別に彼らの問題と思いたくはない。私は介在しないが、{ なにか胃弱か横隔膜の痛みがそれと関わっていて一々訴えるというような障害があるなら、私は私の体の安全のために上書きしてでも私のために }正しく更新しなければいけない。
私の路上に“ うー!うー! ”いったような子たちのそれは別のだれかの遠因かもしれなかった。〔 私には例えば“ バカ笑い ”の子たちが一定の誰かからの影響に因っていたという見方がある。それはかれらのそれには個々の者たちにしては均一さがありすぎるからだ。ある水分のように浸透するなにか( だれかの原因・ベクトル )があるのでは?という質問に基づいて、潜在的な動機に対する調査が敢行される。 〕
しかし、私は私自身の原因には、たとえば“ 母親 ”を反転し解消しなければいけない( この場合には体のそのような痛みが意識されなくなる )。私自身に‘ 先生 ’という委譲があれば、( 普段私の右こめかみと目蓋は緊張させられているかのようだが )拘束を解いたように楽になる。

私が認めなければいけないのはその“ 母 ”か? 

“ ピラトとイエス ”というので私にはデヴィッド・ボウイと黒い馬のあの映画場面が想い浮かんだ。それで久しぶりに“ 最後の誘惑 ”本編とビデオで視た( スコシジ監督の映画と言えば最近の“ 沈黙 ”にも80年代来の久しぶりという言い方だが、未見 )。これ・これと想う。川の水に浸かるということにミステリーが? ( 私は私自身にはインナーサークルを無くそうとしたのだが )あのイエスは無人の地面に輪を描いてその中に座して“ みよう ”とする。“ 宗教( 原型 )体験としての夢 ”という言い方は既に懐かしい時代のものだが。私がひとつ環境になれればよかった。