読書記録7: 自我と無意識(との諸関係)/ CGユング

[ “ 能動的想像 ”に関して参照しようと,今回あらためて,図書館の限られた数から再びユング心理学系の記述などを少し読んでみた。Bハナ“ 内なるたましいとの出逢い, ” -事例集というにはなんだか物悲しい内容で( ハナ本人のお話が無いのは? )私にはちょっと古い時期の問題だった。それら日本語訳が出版された2000年前後の数年だったらもし,たぶん当時私の30歳分くらいにはちょうどクロスできたのかも。
フォン-フランツ先生名義の“ ユング思想と錬金術 ”というタイトルも紹介されていたので,次いで開架に見かけて開いてみたが,私の現在の文脈にはまったく受け付けない。“ 錬金術 ”と言えば,ちょうどそのフロアの最近出版された図書類からの特集コーナーに“ 逃げるアタランタ ”という懐かしいタイトルが(勿論,例の図版ナンバー付きだが,)ミヒャエル・マイヤー版とのあの図版等には(私が無理して小手先わざに“ 石の階段 ”で扱おうとした覚えがあったので,)たとえば“ 白金とマリア ”というような心理過程象徴的な読みも無くは無かったが,他のソースが無かった西洋人的な思想の問題かな,と私は遠慮した。]

..アフリカ人たちのように自身の“ 蛇 ”と会話を交わすことを、我々自身の内なる原始的な未開性( あるいは,未だ無くされないでいた自然性 )の象徴として受け取らなければならない。心というものは決して統一体ではなく、多くの矛盾に満ちた複合体、コンプレックスであるから、アニマとの対決に必要な乖離は(我々にとって)それほど難しいことではない。そのこつは( その眼に見えない相手を明るみに出し )しばしのあいだ自由に我々自身を表現させてやるだけでよい。そして自身とのそうした馬鹿げた遊びに対して当然感じるかもしれない嫌悪感や、相手の声が果たして“ 本物 ”なのかという疑いに圧倒されないようにするのだ。この後の点の方がいささか技術を要する処である。われわれ自身の思想をわれわれ自身と同一視するのに慣れていて、つい我々自身でそれを生み出したように考えてしまう。そして( 奇妙なことに )我々自身では考えられもしないような思想が浮かんできたときに限って、これに最も重い責任を感じたりするのである。どんなに野蛮で気まぐれな空想も、如何に厳密な不変的法則の支配下かと自覚するならば、正にそうした思想こそ( 夢と同じように )客観的な出来事なのだと感じたりだろう。夢を意図的で恣意的な発明品だ,などと思うひとはいない。元より,この我々自身と異なる“ 他の側面 ”にそれと分かるような心的活動をさせてみようとするとき、できるだけ客観的で先入見を排した態度を執らなければならない。意識の抑圧的態度のお陰で、このもうひとつの側面は(多くは感情的な仕方で)一種の症状として間接的に表れる以外無かった。それも情動が圧倒的に高まった瞬間に、無意識の内容が想念やイメージの断片として表面に表れるに過ぎなかった。そんなとき自我は一瞬そうした表白を自らと同一視してしまっては当然ながら直ぐに慌てて撤回するのが常である。事実(ひとが情動に駆られて言うことは)時に甚だ思い切ったように聞こえる。しかし、直ぐにそれを忘れたり否認したりするのも周知のとおりである。

..人間の意識野が限られていれば、それだけ心的内容(イマーゴ)あたかも外部の実在のように思われるから、精霊とされたり、呪術的な力として生者に投影されたりする(魔法使いや魔女。)既に魂という観念が生まれる程の高次の発達段階になると、イマーゴもすべてが投影されるわけではなく(もしそうした場合には木や石が互いに話をしたりする、)われやこれやのコンプレックスが異質なものとしてではなくむしろ自身に属するものと感じられる程に、意識に近づけられてくる。この帰属感も、当のコンプレックスが主体の意識内容であると感じられるまでには未だ進展していない。そのコンプレックス,さしずめ意識と無意識との間にあって、いわば半影の中に留まっている。詰まり、一方では意識主体に帰属しながら、他方では自律的存在なのであって、懸かるものとして意識に対抗したり、そうでないまでも主体の意向に必ずしも従わない、むしろそれの上位に位置してしばしば霊感や警告といった“ 超自然的 ”情報の源泉となるのである。

..“ 幽霊 ”も心的事実である。我々が我々自身の身体を他の物体から区別するように、未開人は(彼らがそもそも“魂”について何がしか知っているとすれば)自身の魂と精霊とを区別し、後者は異なるものであって自身には属さないと感じるのである。それは外的知覚の対象である。だが,自身の魂は(魂が幾つもあるものならば,様々な魂のひとつ)精霊と本質的に近しいものと理解されながら、通例いわゆる感覚や知覚の対象ではない。魂(もしくは様々な魂のひとつ)-死後、死者を超えて生き延びる精霊になるが、しばしば(人格不滅の思想とは矛盾するような)性格上の劣悪化を伴う。バタク族は生前善良であった人間は精霊になると悪意を持った危険な存在になるとまで言っている。精霊が生者に対してするという悪さについて未開人が言うところや、“ 亡霊 ”を巡って繰り広げるイメージは殆んどすべて心霊術的経験に依って確かめられた現象に(細部に亘って)対応している。

..かつてエルゴンの原生林に住むエルゴニー族のひとびとが,( 夢には2種類あって、)ひとつは卑小な男の見る普通の夢であり,(もうひとつは)魔術師や酋長といった偉大な男だけが見る“ 大いなるヴィジョン ”だと、私に説明してくれた。卑小な夢には取り立てて言うべきものが無い。しかし、( 誰かが“ 偉大な夢 ”を見ると、)彼は部族を呼び集め、その夢をみんなに逐一物語る。