参考図書4: ドリームボディ 自己セルフを明らかにする身体 / アーノルド・ミンデル

Aミンデルが言った“ ドリームボディ ”これは自己の境界と関わっている( すべて自己境界に起こる現象とみること. )

夢-身体に表れている症状,その基本的な体験とは?

ミンデル氏自身が,身体症状についての,原因-因果論的な見方と,発展-志向的な方向とに関して,“ ドリームボディ・ワークの実際(第6章)”に於いてこう述べている;
..多くの事例では,身体に対する目的論的または未来志向的な態度が,因果論的で還元論的な治療の哲学よりもやすらぎをもたらす。もちろんその逆も真であろう。例えば,現実的な摂食習慣の変化,そして薬の変化は,身体の機能を過剰に心理化または神秘化(spiritualize)している人にとっては,一時的なやすらぎをもたらすことができる。しかし,そのときには病いや疾患を潜在的には意味のある体験として評価する目的論的な態度は失われた要素となり,意識の中心からはるか彼方へと追いやられてしまう。このような場合,未来志向的な見通しは,病いの神秘を解明することに寄与し,ときにはその強さを緩和させることさえある。..
謂わば,個性-自我の,身体-自然との不理解を見い出すということだろう。

(“ ドリームボディ・ワーク( Working with the Dreaming Body, 1985. )”第6章.,その“実例集”として,明らかにこちらの方が面倒臭くなく読まれ易い本の形である;
..自分のドリームワークへの気づきが少なければ少ないほど、あるいは身体が要求しているように自分を変えることを避け続ければ続けるほど、ドリームボディはより執拗になってくる。それは自己増幅的システムであり、人が重病にかかり、そのメッセージに注意を払わさざるを得なくなるまで、執拗に続く。このパターンと逆のものが、意識の未来へのチャレンジである。症状を感じとり、シグナルをピックアップし、それらをいま、自分の人生に統合するのである。運がよければ癒しが起きるかもしれない。もっと運がよければ、人は成長を始める。たとえ慢性的症状が消えなくても、それは人を存在の新たな局面へと案内する味方となってくれる。そこでは、豊かで意義深い人生のただ中で全体性を回復し、自己一致することになるのだが。いずれにしても、病気は幸運なめぐりあわせになり得る。それは身体の中に潜む夢であり、目覚めのために利用すべきものなのだ。

その書にも,主体的な“ 気-体 ”の持ち方について示唆する処はある(そのりきの秘密!)が,ミンデル氏が唱えたような,元から歴史的な証明としてのメタな観念自体に関して( 歴史的にみた“ ドリームボディ ”の性質,)治療の根拠とするようなマインデルの言い方であれば,それがクライエント自身にとっての直接関係にはならないという絶対の問題として示されていなければいけない筈だ( それらの“ 心理学 ”が体験自体よりもその哲学にあったという点.)
また,(私の本記録にも当然化されていたが,)あのカルロス・カスタネダ“ ドンフアン ”シリーズ読者の読者であることが前書き無しにミンデル本文中に前提とされているのも今更に奇態とは言うべき障害であった( カスタネダ氏の死亡ニュースが遇った時期には,既に“ 真相 ”に関して出版物の話題が出ていた。)無論,夢見原理の私としては,“ 夢見の技術 ”価値が落ちるわけではない。例えば著者自身が“ 不肖の弟子 ”として呪術師に聞きに行くという一問一答的なヒストリー回想だったとしたら,読者自身がその本に因って即“ 直弟子 ”扱いされるような難しさは無かっただろう。

私が読書に毎回苦労するのは,そのような日本語訳された書類の殆んどが,‘私の自身’や‘彼-自身’と訳されるべき語すべてに“ 自分 ”または“ 自分の ”と変わってしまっているので[ 原文では“ あなた- ”? ],半分他人称みたいに文脈-意味がすんなりと通らない。私もたとえば“ ラーメンが食べたい ”という文節に爆受けできなかったのだが,例に“ ドリームボディの ”といえる意味では(ある“ 症状 ”自体の訴えているなにかという先の意味合いであれば)それ自体を‘増幅’してみようといったわけだ。
〔 “自分自身”についての研究? 〕

DREAMBODY: The Body's Role in Revealing the Self ( 1982,1997 )
[ 訳 ]藤見幸雄 他( 誠信書房,2002 )