KOUSHIROU_A5 ( 編集-未整理 )

2012年7月6日 - 栄野シェフ

・その就寝前の問題
一昨日から風邪のせいか頭痛があった。寝苦しい。頭が痛い。

・その前に私が思っていたこと
前回までのように一々“室内の物などをたしかめる”というだけでは別段面白くもないので、“本”みたいな形で情報として何かを確認できたらよい。

あるがらんどうのビルディングみたいなところに、なぜだか女の子たちのチームみたいな者たちの宿舎にされたような室内があった。

外観的にきちんとしたシェフのような格好をした男がひとり、『~』と彼が文句を言った。彼に近づいたとき私はその白い厨房着のきちんとボタン等で止められた様子とその胸にネームプレートをみた。 
[3行ほどの漢字等日本語名称があったのだが、そのうちの“金熊賞”と“栄野~”の部分以外を憶い出せなかった。] 
私は彼にむっとして私の平手で彼の顔面を正面にパチパチ叩いた。「おまえのこの名前は“栄・野~”か、それとも“栄野・~”か?!」と、私は彼が床に仰向けに倒れたのを叩きながらまっすぐに人々のいる通路に引っ張っていった。

[私は“犬”になれないということをこのように自身に明らかにしている。シェフも女子スポーツチームも、すべての職業人は“犬”なのであって、何かに従っていることに違いはない。]

2012年7月7日

[前日の夢について、半日後に急に“思い出した”それと思わしき語。(元の言葉に正確かどうかは判定しかねるが)、
“栄野(さかえの)”のせりふ、
“おまえ、ウンウン言ったのか?”
名札:金熊賞
   “栄野原(さかえ・の・はら、さかえの・はら)?”
 でも名札の3行分の文字等を全部思い出せない。“思い出そうとすることの問題”による。(“金熊賞”の前と名の下の一行)、
その場ではそれらは漢字標記による日本語の肩書とみえた。そこでは夢と気づいてはいなかったが、別の以前の夢で夢だと気づいたときに聞いた“会社・部署名”等を私はもう憶い出せなかった例があった。そこでは私は“あなたは何ですか?”とまだ訊ねにしていたが、最近の夢では“私をご存知ですか?”と言った。]

2012年7月7日 -

朝方、私は夢に気をつけようとしていたが、それがために夢は発生しないといったようだ。そうして寝床にいたとき、まるで頭の中で突然爆竹が鳴ったかのような爆発音みたいな単発-衝撃がひとつあった。このときには“光”はなかった。

2012年7月12日 -

「私」が睡眠の夢に対して観察者であろうとするとき、視点を必要とする。しかし、問題となるのは、“見分けよう”とすることだ。これらは“対話者”、“対話者への観察者”となる。
「一体の私」が1であるなら、“対話者”は2次、“対話者への観察者”は3次ということになり、夢見から遠ざかる。いま「私」が1であるためには、“客観的”という嘘をやめなければならない……。

2012年7月15日 -

私の現実は上がってきている。夢見の実践は私の世界を変える。

2012年7月16日 - 虫、大きくなる

ある床に小さな“虫”がいた。それは肢などが多くあるが“小さなダンゴ虫”よりも小型で少し軟らかそうだった。じっとみていると、それは走り出すうちに(私の前からまっすぐに離れていき)私の目の前でそれ自体が変わったかのように少しずつ大きくなっていた。[“モーフィング”みたいな無段階の変化]。

虫がいた。[それは前のものより少し大きめだったが、それは前の虫と同じようにこちらからまっすぐに離れていた]。それは私の目の前でそれ自体変化したように大きくなった。その胴体の中ほどの少し前方に近い部分だけがその前後よりも太くなった。それらの表面の分かれたまるい甲羅のような部分などが急に外側にひらいたのがみえた。
[後で、私はそれらを私の何か自体だと勘繰ることもできなかった。虫のように小さい? でも瞬時に大きくなる、逃げながら? 2番目の“虫”の最後の変化は、ある種の“威嚇する”動物のそれのようでもあった]。

2012年7月17日 -

私は私自身にいつも圧倒されていた。私は私自身を愛していなかった。すべてに“拒否的”であったことをやめて(受けていた虚弱の害だった)、私は投射(太陽)する。

2012年7月26日 - 読書“ 夢の操縦法 ”

昨日私が図書館の受付カウンターで声を荒げにくいという言い方をしたところ、( 前日までの私のダイアリ K-128 )、なんとか対処してもらえることになったのだが、それでも“ 一両日かかる ”と言われた。その本は( 名古屋市 )緑区にあったということだった。私は家に帰ってしばらく疲れたように休んでいた。ごく事務的な電話連絡があって“本が届いたので受け取りできます”とのことだった。
 今日やっとHervey De Saint-Denys『 夢の操縦法( 夢の実践的観察とそれを操縦する方法 )』を読んでいる。何とも詰まらなそうな体裁。
『夢の操縦法』には具体性がないようだ。一々“ あなたが~ ”などと読者に語りかけるようでは、「 可哀想なおっさん 」というだけで夢見自体のカチにならない。記録本位の私には私のゆめ記録の方がずっとよいと私は思った。いまの私なら“ あなたはこれに関して~しなければならない ”といったような子ども書式のラバージ( Stephen LaBerge )本みたいな体裁はすべてカットさるべし。夢体験そのものを主眼とする。
( そんなに読みにくい『 夢の操縦法 』に私の指を挟んだまま私は寝た。 )
A君が訪ねて来た。A君はデッサン帳みたいなものを1冊持っていて私にみせた。そこにはわずかに何かが3行ずつ書き出されたようで、まだアイデアも何も形になっていない。私はそれらを具体的にするために何らかの処方を彼に示せるだろうと思った。そのとき何か“舞台(演劇)”のことが右側にあった。[ 本によって何かを他人向けに書き出すということは、ある示し方だ。A君が聞いたのは私には悪くはない、何も演技などなかったからだ。“昔話”にたずねるように、嫌味もなかった。 ]
途中で本の後の“ Saint-Denys侯爵 ”履歴解説された部分を読んでいたとき、ひとつ偶然のシンクロがあった。私がHerveyの妻“ ルイーズ ”の名が記されていたのを読んだそのとき、まったく同時に( 1秒のずれもなく )室内-父親がかけていたテレビ野球中継のナレーター音声が“ ルイーズ ”と、ある外人選手の名を呼んだ。まるで私が頭の中で読んだのと同時にナレーターが発音したかのようだった。(無論、言語としてのそれらは日本のカタカナ綴りなので、原文発音ではない)。私は野球に詳しくないのでどのチーム等のどのような選手たちの対戦なのかを画面表示でみなければわからなかった。
この日本語版“ 夢の操縦法( 夢の実践的観察とそれを操縦する方法 ) ”には、“ 夢での転移 ”という言葉が使われているようである。私が私の記録において“ 反転 ”と言ったことと同じなら、それらが自覚され“ 魅力的 ”でなくなるにつれて魅惑的な夢は減少または解消されたに違いない。( これが現在の“ 投射の無い ”私である)。
[ ここでいった“ 投射 ”とは私自身としてそれらを作るという意味だった ]。
睡眠中の夢に限ったことではない。“ 女の子 ”というものが二度とそこにないなら“ 誰も ”魅惑的な女の子たちなどではない、といったように。

2012年7月28日 - 夢になる体操

・わたしがおやすみまえにしたこと
リズミック体操1
1. まっすぐの体でします。(両方の)膝の端が両足の中心に付くように、上半身と腹部を楽にします。
2. (両方の)手を肩のまえに上げるとき、内側からてのひらを上に向けて肩の高さに、肘から手首をまっすぐに伸ばすように、先をてのひらにいったん軽くまるめる。(このときには指示をしません)。
3. 小指から始めてひとつずつ、その指の根元に近いところにつけるようにしてみる。薬指、中指と、ひとつずつ指先を付けて、ためしてみる。(または同時にひとつにまるめる)。
4. そのまま、両親指を当てる位置だけを変えてみます。
 体の重心が変わりましたか? 

[このリズミック体操1をやってみたところ、どうやら夢にも効果があったようである]。
 私はある街の通りにひとりでいた。人影のようなものが割合多く歩いていたようだった。私は“タクシー”に乗らなければならなかった。私は路の右側の先に歩いていって“タクシー”を呼び止める必要があった。
[私はそこでその車に対して“タクシー”とみなしていたわけではなかった。後で私は、それは“あるタイミングに乗る”ということの象徴だと思った]。

私はある会合前の待ち合わせのようなところに入った。スーツ姿の男性が何人も座っていた。私がそれらの間の空いた椅子に適当に腰掛けるたびに、『おいおい、それは議長の席だよ』などと私はいくつか声をかけられてまた立ち上がった。

 私はある街の通りにひとりでいた。人影のようなものが割合多く歩いていたようだった。私は“タクシー”に乗らなければならなかった。私は路の右側に歩いていって“タクシー”を呼び止める必要があった。が、“タクシー”はこちらに向かって来るのだから、私がわざわざそれに向かって右側に進んでその車の進行方向と逆に歩いたのは無駄なことだ、と私は気づいた。

私はある表記されたものをみたようにそこに“夢見のまえのこと”と“夢見の記述”を段落にできると思っていた。私はそれをまとめるように(忘れないように)置いておかなければならないと思っていた。

[“どこで夢だと気づいたのか”知らない。リズミック体操について言えば、体の一体感をとりもどすことはこのような夢の活動にとって大事だというだけだ。Saint-Denys侯爵も夢そのものについての理論家ではなかったように、実践と検討との順序が逆になることはありえない]。

2012年7月29日 - 注意と習慣

私にはHervey De Saint-Denys著『夢の操縦法』第2部の第6章でアルフレッド・モーリー著からの夢の場面等の引用がされてあったところでようやく面白くなってきた。Saint-Denys侯爵は夢のたとえに“幻灯機のような”と言ったりした部分があるので、せっかく科学的に思われる意見等がそれらの間に引用されていても無駄になってしまう。私が彼の著を“理論的”だと思えなかった理由のひとつがそれだ。彼に明るい展望が感じられなかったのは面白くないことだ。
(Hervey De Saint-Denys著は“夢はいつもある記憶に基づいていた”といった言い方なので、それらの記憶的再現以外には何もなかったということになる。しかし、それによって日常よりも面白い夢のイマジネーションやユニークな体験などを説明することはできない)。


今日の私の提案

提案3.言葉つきをやめる
何事も私自身への言葉に代えないで第一におもう(ファースト)。意図する。
提案2.ダブルテイクの習慣
あるものを考えなしにみたら、すぐにもう一度それに目を向けてみながら、「これはゆめだ」とシミュレートしてみる。私がつねにこれを忘れないなら、私は夢でも同じように繰り返すことができるはずだ。
提案1.注意を結び付ける
何か決まりきった身体の動きを行なう瞬間、「これはゆめだ」と(この体に)いう。何度も繰り返されるような動きの度に、「いま(私の)ゆめをみている」と私が注意しがちにいってみる。

今日私はひとつずつ実験に“いこう”とした(提案1)。不断にすべてに「これはゆめだ」と私が気がつくだけでいい。これはそのための境い目のない訓練である。起床していても睡眠中でも、これらはつねに夢である。私自身として自転車の手でブレーキを掛ける度に「これは私の夢だ」と注意する。これが夢で観察者としての注意をする。
 だが、ブレーキハンドルズを引く瞬間では遅すぎる。私が走るときは自転車そのものではなく、不断に私の頭が先頭にあるように(体外離脱のときのように)。夢そのものに支配されてはいけない。これらは単に“現実”といわれるだけの夢なのだ。
 が、突然の雷と吹き浸ける雨に止められて私は、私の夢見への注意は失われていた! 

そのあと私は帰って“ 一瞬のイメージが発生する瞬間 ”をいくつか観察した。私が目蓋を閉じてじっとしていた暗がりに、何か動く影がちらちらとみえた。あたかも目蓋を閉じたときにみえるような不定形のものが数個ずつ発生したようだ。とおもったら、( 煉瓦側面くらいのサイズの )石などが並んだ路面とガードレールの一部みたいな“ 光景 ”がほんの一瞬みえた。私がそのまえに実際に屋外でみた光景の一部だろうか? しかし記憶の像自体ではなかった。少なくともそれは先ほど私が屋外でみた光景の場合とは違っていた。その“ 路面 ”は私の頭のどこかで発生したものだ。でも一瞬限りだったので( 私が観察しようとしていたせいかどうかはわからないが )夢のはじまりか、ただそれだけだったのか?不明だ。それにも意味があったのかもしれない。

そのほかの一瞬のイメージ

・狭い町の1本の通りに人々がたくさんいた。(現実的光景というよりは半ばCGアニメのような印象)。
・女が片手にシルクハットのようなものを持ってこちらにあいさつをした(ハイレッグスの衣装)。

[これらについて私が“それらの原因”を思いつこうとすることは、他人の不明な言動に対して「なぜ?」と私が物乞いをしなければならなかったように、かなり大変だ。私がまえの日に書き留めた夢には“街の通りと人々の姿のようなもの”があった。今日のひとつのイメージにも“町の通りと人々の姿のようなもの”があったが、私にはそれらのどちらにも共通した象徴があったのかどうかはわからない。]

2012年7月30日 - 自己観察“Do you know Me?”

家にいると冷房代がかかるので、私は“提案”の実践を兼ねて栄町MARUEI百貨店出入口の冷風にあたりながら『夢の操縦法』を読み通そうとした。私には(それらが退屈な言い回しなので)一行ずつ読み進むのは面白い体験じゃない! だが、私はその場で第3部第1章~第4章まで目を通した。それにしても、このHerveyという奴は他人の話ばかりにページ数を割きすぎた面白味ない引用(詩歌)役者だ。私はそういう引用論文みたいな考え方は嫌いだ。なぜ彼らは第一に「私のみた面白い夢をごらん下さい」と言えないのか? 他人の文献などを主体とすることにどんな意味や発見が? 私はHerveyたちが夢見をできなかったのだと思う。なぜなら、それらはより“考えること”によってより隔てられていたからだ。
 私がMARUEIまえを通ろうとしたら、何を勘違いしたのかまだ一々自分の顔を気にしたような目線がちらほらあったので鬱陶しかった。それらはあの場所を“誘い場・アピール場”と思い込んだ時代錯誤の格好つけかもしれないが、私の問題として私自身の“それ”に対して距離をとろうとすることは無駄だと私はしっていた(ひとつの太陽をそれ自体に向かい合わせにすることは不可能である、というように)。だから、経験的に言えば私は私自身をやめなければならない。[それらはやはりある“誘われ場”という印-念だったのだろう]。

 三越百貨店で冷房に現としながらメモを書いていたとき、突然私は「観察」を忘れていた! 私は一瞬考えに写し取るのをやめた、そこで目を閉じて、一瞬(私は)いなくなった。その瞬間から、私はたずねごとをしなくなった。私は勃起こそしなかったが、この鼻が張ったかのように少し痛みを感じた。
「私をご存知ですか?」というとき、私は引っ掛からない。私は周りの像(反転した自身)にたずねをしない。あたかも私が「やめろ!」と言ったときには鬱陶しい声があったが、「私をご存知なんですか?」と私が言ったときには誰もがそっぽを向いたようだ、といったように。“Do you know Me?”はたずねではない。“Do you know Me.”であるとき、私は誰にもたずねていない。

アイデア1.五感をゆめと関連つける。
肌に感じた涼しさなどを夢と関係させる。視覚的に面白い感覚をそのまま夢と関係させる。

・前提をやめる
“夢は隔てられている”といった間違った障害自身をやめる。

以下の睡眠のまえには私は何もエクササイズをしなかった。
1.“車”の中にいたよう、飛行機のコクピットでのパイロット。
2.ある戦争時代の老人の容態に関すること。

いずれにも私には睡眠中の“情態”でそれらをみていたし、当然に“私が眠っているという意識”にもならなかったのだが、どれも私自身には関係ない他人-事のようだった。よって、それらに“影響”しようという動きにはならなかった。その後で私はそれらをほとんど憶い出せなくなったものの、ただ、まだ体を休めて寝ていたうちの私が回想しようとした間にも、
カラス5羽ほどが同時に樹木の枝などの間に飛んできて集合したところ。(それらの動きや色調は自然だったが、あたかも画像全体に粗いキャンバス地のフィルターが通されたかのように、それらの羽根や輪郭などに分解ドット等(点々)の絵が重なったかのようにみえた。完全なドット等のパターンというよりは半分合成されたようなフィルター付きの画像といった面)。
という、一回限りのイメージがあった。

2012年8月2日 - 変な“鳩”

私はひと晩かけてLaBerge博士『明晰夢:』におけるHelvey De Saint-Denysの夢と『夢の操縦法』本編からの対応部分などを1頁ものシリーズにまとめてテキスト打ちした。昨日私のみた夢は、膨らんだ“鳩”か風船みたいな一見かわいい顔の変なものが机のそばに浮かんでいたような絵。そして、稚魚のように激しく身をくねらせて動く“精子”ひとつという、簡単な印象であった。
[いま思うと、それらは“蛇”だったのかもしれない。その絵としては先日私がみていた『動物園の昭和史』のある蛇の写真がイメージだったかもしれないのだが、私自身にはそんなに印象があったわけでもない。] 
私は寝るときに全裸なので(精液で)寝具を汚すかもしれないと私が睡眠前に気にしたことがそのような夢になったのだろう。

2012年8月3日 - “猿-人”

私はある“猿”と“人”との間の子の顔をみようとしていた。3回目かもっと後にようやくそのイメージをみた。なぜだかそれに“東大手”という町名と関係した新聞記事(写真)というこじつけのような“関係”が付けられた。
[その“猿-人”が新聞・写真の記事だという“関係”は後で入り込んだかのようだったが、“東大手”も関連性の感じられない町名なので、“猿-人”だけが素のゆめだった。こう思うと、それらの“関係(またはこじつけ)”した理由自体が問題になるが、“猿-人”を象徴的にみたら、夢を“猿”、思考を“人”といった場合かもしれない。つまり、次に述べたように、あるイメージに対して見ようとすることが“猿-人”という私のテーマだったかもしれない。が、それがどの点でどのように発生したかは不明だ。]

 その後、朝方のうちに(昨日のうちまた頭痛があったが、今朝はこの体の調子も悪くないので)、私はまた夢をみることができそうだという気がして寝床にいたが、完全な一体感にはならなかった。体外離脱“体-験”には先ず一体であることが最重要というごとく(年齢とともにこうしたことが難しくなるといわれていたのは、頭の疲労というよりは身体的集中できない問題のためだろう)。
[昨日までの頭痛の原因は私が特に“見よう”としすぎたことかもしれない。単純に、眼精疲労もあっただろうが、私が両目を閉じて“見よう”と力んだので不必要ながら酷使される部分もあったと思われる。]

2012年8月5日 - “暗殺依頼”

どこか町内。私は私の荷物を持ってただ歩いていた。若い男ひとりずつ立っての“検問”のようなことが行なわれていた(制服ではなく、白っぽいカジュアル服装)。

“教室”というよりは、何人かの実習生たちに“教授”がテストをしようとしたところ。木製の引き出し部分。

70代~80代の2桁の数字等の横並びが何段かに並べられた表のようなもの。

学生たちにあてがわれた2階分のアパートメントのようなところ。彼らに舎監役でもいるかのように、彼らの“休み時間”に洗濯機ひとつにも掃除が行き届いていなければならない。

彼ら3人ほど、そこに用意された薄赤い小さな弾丸2つ。ある女への“依頼”、私は拳銃ひとつをその女に渡した(トンネルのようなところ)。彼女がその銃の回転部分を開けてみた。初め薬莢等は3発分とみえたが全部のシリンダーに入っていた。それらの薬莢等はどれもプラスティックのようだった。「(それらは)本物じゃない、弾丸は入っていない」と私は言った。彼女はそれらを見て悪態をついたようだった。

[私は畳の上に体を置いて一晩中“夢”に先制されないように私の何かを見張ろうとしていたかのようだった。夜のあいだに私は私の体を立てようとしなかったので、当然、私の監視する側には“実験”は起こらなかったのだということを私はわかっていなければならない。
“薄赤い弾2つ”は先細りのほんの小さなものだった(純粋な赤色ではなかったが、私には“ブルーがかった”という言い方もなかったと思う)。後のリヴォルバーに入っていたプラスティックの“薬莢”等などとみると、これまでの性的なことの関連の象徴かもしれない。私としてはそういう意識が象徴として私の目の前にあったわけではない。ここでは“暗殺対象”がはっきりとしておらず、彼らと私が“女”に何を依頼したのか、何も具体的な相手として出ていない。彼女はそれらが“偽物”だったことをみた。]