読書記録4: 夢の修行 / ナムカイ・ノルブ (1)

“ 夢の修行 ”とは何であろう?
“ 夢 ”に関する知見,眠りとそれとを本質的にみて自らコントロールしようとする,自覚夢の自然なこころみ.. その“夢”に表れる啓示的な,予言的な,個人の日常的ヒストリーではないなにか,(それらのために,)探究の試み,“ 明晰夢 ”研究となる。しかし,それらが分析される必然性があるとは,実践者にとってのつまづき,自壊の胞子(不時着のとき?),あたかもジェームスキャメロンが独自に青い色調に依ったかの映画の如く。

その書テーマのひとつ,“埋蔵された教え”が発掘される(発見される.)密封されていなければいけない。
私自身,昔‘夢見の実践’コンテンツは砂漠に埋もれた岩のように(古い遺跡として)いつか発見される。それら自体として開かれていることは,深層の存在よりも乾いた砂自体であるかのように,当たり前のものに変えてしまう(もし大地自体が黄金で出来ていたら..?)砂の一粒が,“私は唯一ここに在って金である”と言える,無限。

その英語版編者マイケル・カッツに拠る序文には,その若い頃から明晰夢実践者だったことが簡単にリンポチェたちとの会話とともに書かれていた(その他,明晰夢体験者の記述。質し,夢研究-心理学の歴史に関する概括部分など,わかりやすく一般的。)
これとの夢見について言えば,もし“抑圧”的な要素すべてに対して人間的に抑圧しないように,“ これは夢 ”として認知することができれば,より動作的な夢見が可能では?という示唆になる。
ノルブ・リンポチェの本編,そのマイケル・カッツとのインタヴューでは,“(痕跡の)日常的な夢と,光明の夢(啓示,予知など)”に種別されている。自己の真の本質=明知(リクパ)の境地が見つかれば,睡眠中にもその境地に留まれる,と-
(M.カッツ)..夢を自覚するための修行を深めるためには、ラマからの伝授が必要なのでしょうか。明晰夢を体験したことのある西洋人は、たくさんいます。明晰夢を深めることと、伝授を受けることの関係はどんなものでしょうか。
(N.ノルブ)..明知とそこから生まれる知恵は、わたしたちの土台に内蔵されている光明とエネルギーに結びついている。伝授を受けることによって、血脈につながれ、過去の修行者たちと同じ悟りを、じぶんもえられる可能性が生まれる。
そう言えば,アレクサンドラ・デヴィッド-ニールに拠るチベット行のお話にも,そのような言い回しが遇った。P.D.ウスペンスキーに拠るグルジェフの逸話に,“イエス最後の晩餐は文字通り血の儀式だった”と言ったとも思い出されるが,象徴的であったとしても,“正しい知識”というものがあるならそれは血液同然だという意味の問題であろう。
私としては,もし宗教的な教えに対して耳鳴り-抵抗値を増したいという趣旨でだったら,そういう本も悪くないかも? -夢や日常そのものは現実ではないのだから,と

私は仏教系やヨーガ・タントラの用語には馴染みが無く,その“夢の修行”説明本文にはなんの運びのことか,わからなかった。たとえば身体の脈管? からだ中心に特定の文字と音を観想する? 意識集中の方法(慣習化)必要だというひとには効果的かもしれないが( 私は例の“ 仙道 ”を連想した。私も以前書いたように,たとえば“ 夢 ”という語を常に印象的に置いて関連点けようとしたのと同じことでは.. しかし,若し“気体”そのものを扱えるのであれば,敢えて特定文字に依って留めようとする必要がろうか? )

(夢の)修行には三つの大切なポイントがある。一番目は夢を吟味すること。二番目は夢をコントロールすること。そして三番目は薫習すなわちカルマの痕跡を認識し、見分けること。
それらは本来修行プロセスなのだが,ここから簡単に言い直せば,1. 夢と現実性とについて見直す(“現実”意識の在り方,鏡像であるすべて.)/2.(自覚とともに)夢に表れるものをコントロールしてみる,夢の本質を理解しうる。/3. “ 夢 ”が変化しない?(妨げる慣性.)
これらは‘ 夢見の実践 ’に於いても定律である。“不明な執着(の表れ)”を明かすことがその修行の本質手前なのだが,先ずこれの‘夢見’目的にも指定できうる。

(次回‘ ドリームボール,青い太陽? ’続く..)

Dream Yoga and the practice of Natural Light (1992,)/他