読書記録1: メタスキル( Metaskills: ) / エイミー・ミンデル

この本に紹介されたエイミーミンデル“ メタスキルs ”にも借りて読んでみる-〔副題:心理療法の鍵を握るセラピストの姿勢。その英語副題として“ Metaskills: The Spiritual Art of Therapy ”と記されていた。“ spiritual ”というと,心療という意味での“ 精神的- ”というよりは“ 心霊的,精霊的 ”という訳になるのでは? “ 治療のその精霊的芸術 ”と訳した場合,もっと(超)自然-霊的な,ニューエイジ風のタイトルになる。
著者自身からの一節に拠れば;
- セラピストが、一瞬一瞬に持つ実際の感情に注意を集中し、研究すべきだということである。-彼女がこの感情を意識する時、彼女のスピリチュアルな信念が現実のプラクティスに現れる。それゆえに、セラピーはスピリチュアルな仕事になるのである。
ところで,私はこれを読むまえに“ 覚醒中の夢 ”話題にして“ 黒い水辺に浮かんでみえる月 ”という印象が遇ったのを,こっそり日記に書いた。
私が今日“ メタスキル ”開いてみた処,先ず“ 水面に月 ”という象意が(日本に関連した話題として)書かれてあった。なんだー!(こっちにあったのか..)このまえ自転車うんどう行き帰りにソフトクリーム買ってかじっていたとき,私はそれを誰の望みとは言わなかった。それは著者とは無関係だけれども,私はまたページ間に“読みつけない”のと思い,訳者あとがきから順に辿ってみる。私は不図“ ニューシネマパラダイス ”アフレイド老人が火傷痕の顔にその手をやりながら“ ある兵士のたとえ ”に語る場面が想い浮かんだ(-“彼に言ってはいけない.”)
そのまえ“ 24時間の明晰夢〔 参考図書2: 〕”には無かった,エイミー側からのなにかが記されていると私は目論んだが,その用語にも音韻にもなにもわからなかった。そう言えば,昨日,私は“ 井戸の底(水中)から見上げたような印象,あるトルコ人少年によく似た姿がこちらに覗き込んだような ”処だった。私は彼がからかったと思ったが..。-?
偶然の旅テラピーという題名なら良かった。私がいつも表面に言ったのは“またそのうち会いましょうね”という美しさであって,私の安与ではなかった。
〔私は最近また“ タイタニック ”ラストシーンに想い浮かんだ。昔“ 臨死体験 ”と言われていたあれみたいな。あの回転しながらホワイトアウトしたようなイメージの度に,なんでか“ あのローズがなにがいけない? ”と疑問符のように言うものが遇った。〕
エイミーの“ 月 ”はその“ 水 ”に映っていたそうだが(その元々の題,“ MOON IN THE WATER: ”その第1章では,“ 水面に映った月を手に掬えるか? ”という問い。)
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私のは違った。それは“ 見えない太陽 ”を暗示し,黒い水辺は凪いだようで,波も細い線のようだった。
[ 中心素材としての“ 感情 ”の扱い,ある“ 雰囲気 ”の元となった記憶,心像? ]

‘ 私は起きていよう ’と言いつつ,次の瞬間にはねむりこけてしまう。-私は起きていたいのではなく眠ってしまいたいのでは? しかし,“ 覚醒夢 ”という観察可能の手段もあるわけだし,“ 夢 ”のために寝床に横たわる必要が?
今回少しよんでみて,“ エネルギー源泉との発見 ”というあのドンフアン-カスタネダにもおなじみの論理に相等する,症状を創るもの(エネルギー)という見方は開眼的(個の超人化という意味でのグルジェフ論が偲ばれる。)私は‘ 動き自体であれ ’といい,かつて一度も“G-リング”を使わなかったが..。
言えば,‘ 動き ’に無関係な,弱らせるような物事に一々関心するような用は無い,と。

( エイミー )彼女は経験を静止した状態で記述することに飽き足らず、背後にあるドリーミングプロセスに入り、それとともに流れる。彼女が河のエネルギーに加わるときは芸術家や詩人である。自由にそこに跳び込んで探り、踊って、歌って、遊ぶ。そうしながら、新しいもの、思いがけないものを見つけるのである。

読書中の私的メモ(対称項:)
対面的なイメージ(それ持続に人工的な刺激-印象利用として費やされる.,)/ 自動的な“ 夢 ”,いわゆる明晰夢(それ自体の論理を持っているかのような。)
縮小された自己-私(対立,とらわれ)/ 拡張した私-自己(の知覚:)

自分さがしの瞑想 / アーノルド・ミンデル