参考図書3: 夢とフォーカシング からだによる夢解釈 / ユージン・T.ジェンドリン

(1) 夢自体に語らせる?
何年まえか,このタイトルについて,私の日記に一度引用した。確か,私の夢場面での“列車(機関車)”がなにを表したものかというクエッションと,ちょうどそのジェンドリン著に簡単な夢-象徴等の表記が遇ったのだと憶う(-なんと書かれてあったのか想い出せない.)私のみた“列車”の想い出せる3回,どれも私自身とは関係無さそうな,超常的な表れだった。

(著者自身がこの本に示した夢解釈の方法について最初にその利点3つを上げている。1,ひとつの理論や信念の体系に限定されていない。2,この方法の根本的な基準は,あなたの中に何かが開かれてくる,あなた自身のからだの感じにある。3,この方法については教えることも学習することもできる。)
やさしい。?しかし,著者自身も色々な専門家たちの夢の理論から再構成したと述べている。私の読んだ他の例では,NLP(神経言語プログラミング)のリフレーミングなど,あるモデルケース等への共通性に統計-策定された(なるべく一般的に当てはまるような基礎的な)方法とされたのと同様であろう。限られた伝統的な夢解釈法からの結論は仮説に過ぎない,夢みたひとの具体的(体験的)でなければ無意味だから,様々視点を質問形式に組み換えた,-その博士著者が“基準”と言った処。
このように理論的な実践ものにはそれ専門の(いきなりのひとには先ず不可解な)用語等が常にあるので,少し引用してみよう。その著者の1章目から;
..たとえば,あなたが今日やることになっている用事の1つを,忘れてしまったとしましょう。あなたは,この忘れた用事について、何か奇妙な、はっきりしない感じ(これをフェルトセンスと読んでいます)に気づきます。..そうしたことはきっと,あなたがやり残したことです。しかし,もし,その不明瞭な感じが変化しなければ,忘れた事柄を思い出したことにはなりません。ついに思い出したときには,せき止められていた水が溢れんばかりに流れ出す感じで,からだが楽になります。うーむ! 何をしようとしていたかを思い出すだけではなく,なぜ,どこで,誰と,そしてどう感じていたかも思い出します。..からだの感じは間違えようがありません。
..たいていの人は,からだに注意を向けるという,この奇妙な方法を知りません。しかし,そういう人でも時たま,よく理解できない意味をからだで感じることはあります。何かを突然思いついた(hunch)ときがそうです。ある状況,たとえば就職の話が良さそうに思えるとしましょう。とても良い話で理屈の上では何ら異論はありません。ところが,からだの中に何かぼんやりした,不快な感じがあるのに気づくのです。どうしてなのかわからないし,はっきりとは掴めないけれど……。
こうした‘フェルトセンス’は稀です。しかし,あなたがフォーカシングを御存知ならば,必要なときにはいつでも,どんなことのフェルトセンスでも掴まえることができるでしょう。

(私は例の“汽車”以外にも先だ未読なのでなんとも言えないが,)フェルトセンスは確信的な表れそのものでなければ無意味であろう(それが“だれか”ではなく,“からだのぼんやりとした感じ”という条件-無条件として,最初やわらかそうな語りに拠って設定されている。)これが“夢”に関してその解釈に於いてのみフェルトセンスを通して理解できるという,予めの了解点であった(これからの本文中に注記されているかどうか..?)
もし私にとって“フェルトセンス”が有用であるとすれば,それがなにかを発見しうるのは必ず“夢”の最中であるに違いない,と私は思った。私-その場で見なければ“夢”の本質は意味不明だ。いつも目前に(視覚的に)見えるものだけが“夢”現場での判断要素だというひとには,このような感覚的アプローチの可能性が面白い。“夢”の文脈自体に私の関われそうにないという場合には,これは有効かも知れない。
【 ある“夢”について憶い出してみたりその続きを見てみたいという場合には,その“夢”のときの(寝ていたときの)体-姿勢が自然再現するか,その姿勢で再び意図してみれば良い. 私の記録にもそう在ったし夢見-指南書の類いにも等しく書かれている.
ある“夢”に関して問い直すというやり方も夢見導入の常道だ。私は後で夢の修行という見出しで再び取り上げてみたいと思うが,自然の眠り中には自覚が在るけれども意識されていない状態が有ると示摘されている。ラバージ著“ 明晰夢 ”に粗方書かれてあったように,これにも通例“ 対象物 ”が用いられるのだが(:身体に因って“夢”を反転する-)夢見者意識が“夢”発生源自体を利用できることが大体の目標であるに違いない。】
例の“覚醒夢イメージ療法”での子どもたちはそのセラピストから与えられたモチーフとの変化様相に“即製-自身の姿”だとは見分けなかっただろう(だから少年あるいは退行しての相とのセラピーとして有効であるという,一方にマスキングされたかのようなその前提条件の意味では?)読者は当然この点が最初からのコンセントであろうし,私のように‘夢見’手法的な活用のためにこうして“ 同時の夢-明晰 ”的な扱いをしている。

(2) やわらげられたワード
[ ここでの例により“ シャーマンズボディ ”読んでみようとしたが,結局も無くなんの訴えかわからない(資料ファイル編にと,取り敢えずミンデル8冊程に通してみたが,療法師というよりも患者たちの話を都合よく利用したみたい?)
注意,焦点 ’と言うだけなら私はここに体験的に書いてきた(私は“ エッジ ”に読むよりも既に‘ 全的アクセスの可能 ’と言っていた。これは“対立側”との保留ではなく,必然反転するだろう。)‘ 夢見の実践 ’としてサワーかを述べたら(警告文以前にこのタイトルは元に回収されなければなrなあい。)-あたかも,ある身体上の“つまみ”が捻って元に戻したがように。]
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アーノルドミンデルは“ 自らその夢に表れた夢人物(の身に)なってみること- ”と単純そうにすすめたが,ジェンドリン“ 夢とフォーカシング ”では(その一見違うコンプレックスの表れを,自身のからだに)みて,戻すというバイアスコントロール,これの作業に相当する。
(下線は私に拠る,)10章より;
..(ジェンドリン)バイアスコントロールその1とは,あなたを逆方向の全体的な感じの中にとどまらせ,よくなる可能性のあるものが,その感じの中に入ってこれるように,開いたままにしておくことです。
..作ろうとしても,物語を思い通りに作り上げることはできないでしょう。とにかくあなたが考えていることを夢に語らせれば,その不可解さは解決されると思いますか。..! 彼らは,あなたのからだから出てきたのであり,今でもそこにいるのです。..
[ 夢と表れに対して反対するという拒否的な意味からではなく,その反対側の表れに心を開く,と(そこで“ 行動の逆 ”について考えてみるという対応の仕方も示されている。但し,人間的な象徴には無為となった今の私には,退屈な章節も幾つか遇った。果たして“ 夢 ”の場で一所懸命に“ 意訳-解釈 ”やれるかどうか?)]
前述“ 覚醒夢イメージ療法 ”にも,あるイマジネーション最中に(その表れの側としてどんな感じかをみる,という)役割の入れ替わりが為される場合がある。
[ 無論,そのようなイマジネーションに於いて特定対象的に投影が行われたりすれば,その活動が催眠か魔術のように作用するという懸念もある.,イマジネーションに於いても勝手に乱暴をしないようにというルールが申し渡される。]
..(ジェンドリン)その扱いにくい感情をおどしつけても,逃げてもいけません。じっとして,何が扱いにくいのかを感じてください。それに十分な忍耐と,理解を示しましょう。扱いにくいものに,あなたに向かって語らせ,なぜ扱いにくいのか,その理由を語らせてください。これを続けながら,待ってください。
数分間(あるいは数日)にわたって,それにじっくりと,優しく耳を傾けてください。その夢のイメージを思い出し,その役を演じることを考えるたびに,あの感じをもう一度得ることができます。
....もし解釈が,あなたが当時感じたように(打ちのめされるとか,無力であるとか)感じられるのであれば,それをその時点に属するものと考えてください。それから,その感情に少し空間を与えてください。最善を尽くした子どもを尊敬し,慰めてあげてください。どんなおとなでも,心の中に子どもの部分をもっています。あなたの中に生きている子どもと親しみ,その部分を気づかうおとなになってください。..

(3) 夢の体験を理論に還元しないでください。
“ 夢とフォーカシング ”付録Aからメモ用紙に色分け線などを引きながら,私の関係に当てはまるか否か,チェックしてみた;
( すべての現在体験には過去体験が交差している )..過去は現在の中にあります。過去の体験は,現在の体験を形作る過程に深く関わっています。..
[ 不図,私の前に置きっぱなしで未だ殆んど開けていない(一見)分厚い本が一冊。“ それの190にもそういうの(過去視に関する話題)あるよ.. ”とおはなしが言った。まさか。その190頁に開いてみたら,ちょうど“ 時間再構成法(time reorientation) 年齢退行(age regression)”の見出し。私としては例の‘ 先読み ’だろうかとも思ったが,私は以前その本には一度か二度簡単にめくってみたので,これもちょっとずつの記憶(周縁視野か)自動だろうか。]

“ 夢とフォーカシング ”に対しての問題点,“ 夢 ”との実践である筈の動的な可能性よりも“ センス ”に依って夢に追求するという,受領的なフォーカスの方に遇った。私信.

ジェンドリン先生自身も“ フェルトセンスはいつでも必ず感じられるとは限らない ”というように述べた。日常的な感情や観念的なミーンを越えたレヴェルのフェルトセンスであり,これが新しい体験に向けられるべきであったと[ -理論上の概念ではなく,ステップ自体として。]
(その付録A,項目“ 統合ジレンマ ”より;)
深い弛緩状態の中では,私たちは,開いてくるものを十分に味わうことはできません。夢の最中に,それが夢であることに気づくことはまれにしか起こらないのです。あらゆるものを再解釈するからだの感じは,そのとき弛緩しています。私たちのあり方全体が十分には機能していないため,すべてをもって対応することができないのです。これと同じことが,催眠や薬物による意識変容の状態にも当てはまります。そのため,専門家はそれぞれの変性意識状態の後に,いわゆる‘統合のセッション’を提供します。
私たちが何が新しいものだったかを見定め,そこから全身体的なステップをつかまえるためには,出来事についての全体的な感じが再び戻ってくるようにする必要があります。
しかし,日常の意識状態に戻ったとき,私たちは,新しかったことを直接に体験できなくなっています。私たちは,ただそれを覚えているだけです。
ここにジレンマがあるのです。夢をみながら普通にやりすごしているとき,私たちは,新しいものを‘統合する’ことができません。同様に,日常においていつものように感じているときも,私たちは新しいものを統合することができないのです。
これが,統合ジレンマです。

..統合とは,更に1つの断片が,古い断片の中にうまく当てはまることではありません。捨象しゃしょうされるものもあれば,変化するものもあるし,何れにせよ“すべての断片”に最終的に到達できるということではないのです。あるいは本当は,それらは断片ではないのかもしれません。ステップとは,生きていることの小さな一部です。それは何かを取り入れることではありません。それはからだ全体によって作られた,全体の変化なのです。

・ 私自身の‘ ぼんやりとした状態 ’(夢-条件点け等に関して;)日記オリジナル本編中“ UNDO ”2020-03-31,そこからの索引が参考となるだろう。
“ フェルトセンス ”という語がぴんとこないので,わたしの‘ 純粋な身体性 ’と述べてみよう。

[著者]ユージン・T・ジェンドリン
[翻訳]村山正治,
夢とフォーカシング からだによる夢解釈(福村出版,1988)
Let Your Body Interpret Your Dreams (1986,)