3. 夢をきら

読書ノート: 能力研究-(7)より〕

心霊現象の心理と病理(いわゆるオカルト現象の心理と病理,1902.)”-その各段落には数字が付けられてあるので,下記に含む引用部分等-太字に於いて()内にその各番号とした。

[ “状態”観察等の直接的な記述内容に限り,もうひとつのページに簡単にまとめてみた。
“-現象の心理と病理 ” 参考[ 文節 ]等:

その論文では,ユングは“ 霊媒 ”と目された彼女について“以心伝心は一度もうまくいかなかった。(44)”..彼女とその会の参加者との“ラポール関係(催眠術者と被催眠者との間の、暗示し暗示される関係をいう)を発見することはできなかった。(41)”という。
その“患者”の簡単な概要として(76からの一節/覚醒状態)ユングはいつのまにかこう述べている。
..この患者の場合、後にみられた諸現象の兆しがまだなにも無い時期から既に、痕跡的な自動症と夢現象の断片とがあるのであって、これらはいつかは注意散漫な知覚と意識との間に2つ以上の連想が紛れ込んでくる可能性をもっているのである。[“(この患者には)独特の読み誤りがあった。”]誤読は更に心の構成要素にある種の自動的独立性のあることを示すもので、この心の構成要素は、普通はなにも目立たない、あるのかないのか疑わしいような注意散漫の際にも既に、わずかではあるが生産性を示す。そしてこの生産性に一番近いのが生理的な夢の生産性である。それゆえ、誤読をあとの出来事の前駆症状と把握することができる。..最初軽度だった注意散漫状態は、いわば意識の表層下で、あの奇妙な夢遊症発作にまで発展し、そのため発作の無い覚醒状態はまるで消失しているかのようだったのである。..夢遊症発作が減弱(完全消失?)してからの最近2年間には、相当な性格変化が見られる..(下線強調してみた。)
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その本文まえ“ 緒言 ”に,夢見の参考に立ちそうな一節が遇ったので,ここに引用してみよう。
半覚醒状態での入眠時幻覚に関して;(夢遊症の状態,偶然の自己暗示によって自動的に形つくられていく内容-)といったあと.,
(ヒステリー患者の)麻痺した部位の皮膚刺激は、場合によっては視覚像として、あるいは少なくともいきいきとした、突然出現する視覚表象として知覚される。..覚醒した意識領域に於いても、まれにではあるが類似の現象の認められることがある。たとえばゲーテは、頭を垂れて座り、一輪の花をいきいきと思い浮かべると、その花が様々な形をとりながら自動的に変化するのが見えると述べている。(28,原注17)
半覚醒状態では、似たような現象はいわゆる入眠時幻覚として比較的しばしばみられる。ゲーテの例にみるような自動表象群は、最初の表象が意識的であり、それに続く自動表象の展開が最初の表象によって規定された範囲内、つまり運動領域内、あるいは視覚領域内に留まっている点で、本来の夢遊性自動症とは区別される。(28)
しかし,例のゲーテがその“創造”について同時に“..その創造は涸れることも無かったが増強されることも無かった。(-原注17)”と述べた点には注意が要る〔 このまえ,参考図書1:“ 覚醒夢を用いた子どものイメージ療法 ”に関して私の述べた,“改変不可の夢自体?”という見方について.. 〕“ 創造 ”がそれ自体の自動的な-という意味だったのなら,“能動的-”という語の意味として手前に無いのと同じとして,それになんの価値が?
ユングはその“霊媒”女子の“ 夢遊症性人物 ”とみて簡単に,次のように述べた;
..それら人物は、霊媒の全記憶を、記憶の無意識部分までも含めて駆使できるのであって、エクスターゼ(恍惚,エクスタシー)中、霊媒の見た幻影のこともよく知っていたが、エクスターゼ中の霊媒の空想についてはごく表面的な知識しか無かった。彼らが夢遊症中の夢想について知っているのは、ときおり参会者から知らされることだけである。(58)
これは“占有”という概念に基づいているか,その論文ではユング自身がそれ自体メタパーの可能性に依っている(心霊主義時代,“霊媒師”の多くはトランス状態に陥り,霊の媒介に拠ってその出現最中に何が遇ったか,あとで憶い出せなかったという.)
もし“夢”の状態に関してこのように他人称的に語ろうとすれば,“憑依”という観念が増長されるおそれがあった。私は普段に日本語も器用に喋れないひとがその寝言にだけネイティヴのような英語発音でなにか呟いているのを偶然聴いたことは遇ったが.,もしそれが純粋な脳内-聴覚記憶再生の類いだったかもしれないという見方が最初に無かったとしたら,たとえば“霊界-他者の媒介”というような迷信が一般化されてしまっただろう。
..特に注意散漫さと夢見るような性質とはヒステリー性と解釈できる。ジャネのいうように、ヒステリー感覚脱失は注意障害に基づいている。彼は、思春期のヒステリー患者が‘感覚生活の領域に属するあらゆるものに対して極めて無関心かつ注意散漫’であることを確認した。ヒステリー性の注意散漫を最も見事に示していて注目に値するのは、誤読である。(73)
その論点(推論)では,たとえば音読中に,ある感覚印象の刺激が上昇すると(意識されない下に)ある特徴的な方言のような近接-連想を媒介として表されるか,ある領域の興奮性が注意散漫によって低下し,連想によって方言そのものが表現される。いずれにも,流入する様々の連想が、ただちに新しい感覚印象とことごとく結合してしまわないように抑圧されなければならない。(73)
無論,本当の問題はその“結合”がどのようになにを目的としたか,という点であろう。〔ここで想い出される,例えば“ 覚醒夢イメージ療法 ”セラピー内容にも遇った,ある女子クライエントの“(そのイマジネーションの最中)それが引っついてくる”という表現がそれ当然のように繰り返された点など。〕

..健康人もなにか一つの対象にひきつけられて、注意散漫による誤り、特に上述のような誤りを訂正しないこともあるが、それは例外的である。この患者にこうしたことが度々起こるのは意識野に著しい狭窄のあることを示しており、彼女は同時に流入する比較的少量の要素感覚だけしか処理できないわけである。この‘精神的弱点’の心理学的状態を性格付けようとすれば、これを受動性、能動性のいずれが勝っているかによって、睡眠状態あるいは夢状態と名付けることができよう。痕跡的としかいえない広がりと強さをもった病的な夢状態というものもたしかに存在するが、それは突発的におこってくる。突発性夢状態で自動的な活動を伴うものは大体ヒステリー性と言われている。..ヒステリー性体質の基盤があってこそ突発性の部分睡眠ないし夢状態が頻発するからである。(74)
〔因みに,ユング氏はその“患者”に関して(親類,参会者として)残念ながらヒステリー性の身体症状が見られるかどうか診察できなかったと最初に書いている。〕

眠りと夢に関連した話題として,入眠時幻覚,出眠時幻覚などの引用。“性格変化”の説も,自動症という,主動の欠けた非積極-状態について著し,“夢の客体化”という見方が述べられるが;
..(-117)関心のある対象に夢中にさせられることは、フロイトが、ヒステリー同一化と命名しているものである。たとえば、エルラーの重症ヒステリー患者には、入眠時に多くの小さな紙製の軽騎兵が現れる。彼女の空想はすっかりその虜になってしまい、自分もその一員として軽騎兵の真っ只中にいるように感ずるのである。我々は普通似たような現象に夢の中で遭遇するが、そこでは我々は大体‘ヒステリー的’に考えているわけである。虚言者や夢遊症者の演技は、関心のある表象に徹底的に没入しているため、意識的な芝居では到達できない自然さももっている。覚醒した意識が、熟慮し計算しながら介入することが少ない程、それだけ夢の客体化は確実で実感のこもったものとなるのである。

上記の“ヒステリー的に考えている”という言い回しには(翻訳の問題かもしれないが)読者に誤解させる途頃があると私は思う。なぜなら,だれもそのような“夢”だと明瞭に判断つかない状態のあいだに,なるほど!これは自身の“ヒステリー的な”状況,とは思い至らないであろう。私はユングの論があたかもそれら語自体の観念性に依って踏襲しただけかの印象になる(フロイト論稿にも言えるが,それらは論考の可能性だった。あるモデルケース等に関しての,それら自体の実相や誰の客観という追証的な態度も示されてはいなかった。)言えば,このひとは一体それらの語自体というタクトによって奏を功しているので,実際的というよりは実効力本位?という質問が当然にじんできた。

..夢の源泉は、感情強調された表象であって、しかもほんの短時間しか覚醒意識にのぼらなかった表象であろうと推測される。(119)これはまさにヒステリー性の問題を言っている。
..夢の役割の中で意識的人格が完全に消滅してしまうということが,同時に存在する自動症の発展を間接的に助長している。つまり、「第二の状態は意識の分離を引き起こしうる。それは感受性の変化ではなく、精神の特殊な態度──唯一点への注意の集中である。この集中状態の結果、精神が他のものに対しては散漫かつある程度無感覚となり、これによって自動的な行為へと道が開かれる。(199,括弧内はビネからの引用部分?)
ユング自身の論よりも,そのビネに拠る“唯一点への注意集中”が同時に分離的でもある,という点の方に,私はぴんときた。‘ただひとつ’であるとおもわれるときに,崩壊しかけている,‘私の’といえばそれは“内外の”宿命でもある。

あらためて“性格変化”に読んでみようとすると,従来の性格的な要素という扱い方に,疑問が起こる。単に“ある蓋の付いた壺みたいな物”という形容ではなんの示しにもならない。[“遺伝的因子”と言えば受け継がれたDKそのものだが,それらすべて個人環境として問おうとする者が時にその単独者として裁かれるというダイラマの問題でもあった。]美しい理想と卑しい俗っぽさとは同じ軸か鏡自体の面であるように(例えばだれかに欲求不満の認めをする,)抑圧されたひとの観念はそれ自身とどまる。“人-物的要素”はそれぞれ違う名前で呼ばれるが,面に投影されるか“幻覚”のように表れるのか(表面的人格者はそれを選択できない)ユングに依って観察されたその“霊媒”の性格-異相または異名的な問題であった。

“-現象の心理と病理 ”参考[(その状態観察に於ける記述よりの)箇条的-文節 ]等: