参考図書1:覚醒夢を用いた子どものイメージ療法 -基礎理論から実践まで-

(1)覚醒夢イメージ療法の一原則:
心理的課題として(睡眠中にみた重要な夢を)イマジネーションに想起する。(ある夢の最終シーンからの展開)という,夢見の実験者にはおなじみの実践方法。
〔 睡眠時にはこの関係が逆転して“ 夢のこれだ ”と気づかせるような要素として表れる場合がある。私(Okeda)は観念的人物像を作らない方向だったので,これが“ 新しい関係 ”として表れることは滅多に無い。〕
(覚醒夢イメージでの)シンボルドラマに於けるシンボルゲシュタルト(象徴像としての形姿的な表れ)に敵対視しないで,そのようなコンプレックスとの不安解消のため,栄養を与えて“和解”を試みさせる。
..栄養を与える技法は、不安を呼び起こすシンボルゲシュタルトとの最もソフトな関係の持ち方である。そのとき留意すべきことは、シンボルゲシュタルトに豊富に栄養を与える点である。そうするとシンボルゲシュタルトは疲れて力を失い、ついには変身したり親密に振舞ったりするようになり、その後和解できるようになる。
..出現するすべてのイメージ像のモチーフが、いつも象徴的な性質を含んでいることを、セラピストは常にはっきりと意識しているだろう。クライエントに対するどのような誘導的行為も象徴的な意味を含みつつ、前意識的な感情の状態に直接働きかけていくものである。..さらに、イメージ像の創造そのものだけで治療的意味があるのではなく、そのイメージ像の創造に伴う、あるいはそれによって解放される情動も治療的意義があることを考慮しなくてはならない。..

“与える”という(求めがちな拒否系の子が自らに思いもよらなかったような-)転換的な展開の方向が示された。
ところで,私が‘夢見の実践’という点から注目した一節; ある9歳男児へのモチーフ(そのセラピストが導入したイメージ)について,例えば“ 森-入り口モチーフは‘ 小川-流れに追跡する ’または‘ 山登り ’よりも試行的イメージ面接に相応しいようだ。”と述べて;(それらのモチーフ等)この年齢の子どもに典型的な動作の想像を喚起することが多く、森の入り口のモチーフのほうが、よりいっそう具象的な想像を喚起させる。..
詰まり,身体運動的な前進-可能性に対して,“ 森の前 ”に於いては(自身の入り込めない,境い)その像が具体化される傾向というわけだ。[しかしも,子どもが“ そこに無意識の心的複合体(コンプレックス)を見る ”と予言されていたのかどうか,わからない。この本は優しい解決方法の提案なので,C.G.ユングの説話とは言わないが.,ユングに拠れば,刺激語に因る連想(口頭)反応の秒数間隔比較に於いて,刺激語に反応の乱れる“ 複合体 ”が見られれば,それは心理的障害の本質的な構成要素でもある( 自律的複合体。)けれども,ある問題解消への表象確認には,連想語よりも,イメージ観察の方が具象的表れに見やすかったのでは?
“覚醒夢イメージ療法”には,ある表れに対して子どもの自由にそれ自体を深化させたり改変を加えさせたりはしないというセラピーの原則があるようだ。しかし,私自身“ 夢 ”体験例にも遇ったように,なにかそこにみえる物に私の手を加えようとした処が,それでも“夢”自体の能動に遇ったかのような,やはりも私の自由に変えたりできなかった場合が想い出される..]
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私は身体自身に収斂しているあいだには“周囲”に注目強化されない(観念的なイメージ領域は刺激されない。)身体運動の統覚的な作用がそれ自体として一致感覚となることと,“ゆめきけん”の重要を訴えるひとつの際であった(-過ぎるメンタル性に対して.)
.. このイメージ像の展開はしばしばとても自律的であり、内発的なものなので、さらにほかのモチーフを導入しても成果が高くなるわけではない。
[私がもし“墓場”のあいだを走りぬけなければいけないときに,この身体自身であるのをやめて‘まわり’自体をみとめるとしたら,‘ようかい-ゆうれい’のようにさまよったのだろう。]


(2)
私のオリジナル本編日記(:2021-02-22)で述べたように,その本-第3章に書かれてあった“アンナ”という若い学生に関する一連の記述等に(私の通例で,一節ずつ遡りながら)読んでみた。そのクライエント当人のイマジネーションに,次のような内容が遇った:
(そのイマジネーション-13回目;)年配の男性と女性が森から出てくる。アンナはその2人を詳しく観察したくない。それで素早く視線を避ける。2人との何らかのかかわりをもつことが‘危険’なことだと思っている。彼女は2人の頭上に浮いている。その後、2人から随分離れたところで、彼女は再び足を地面につけることができる。そして2人をもう一度観察する。2人の顔は水に映ったようにぼやける。水彩画のように見える。イマジネーションの終わりには、この2人の姿は蝋人形のように見える。
アンナにとっての“両親”とは,どうやら彼女自身の性的な願望かその水際との同一性があったのでは? “2人が蝋人形のように変化した”という点に,書き手は“(その子どもっぽい関係からの)非理想化”という見方を示した。私は読者として必ずしもその語や意見に鵜呑みする必要は無いと思った。私の夢記録についても,もし“表れ”だけを繋いで一記録的に読んでみれば,そこには私や当人も気づかなかったような相があるかもしれない。
(そのまえに,なにか新しいことについて,アンナは,)“ もう海の底に座って光を下から見上げることはしたくない。水面の上にいて、光の中にいたい。”(森の入り口という例のモチーフはセラピストから.,続き14回目では“ 海 ”というモチーフによってアンナは,“フランスの海岸,ひとりで海辺に座っている.その手足に波がかかり,海に入ると気持ちよいが,危ないと思う。海辺に若いひとたちのところへ行き,ある男性傍に座る(グループの楽しそうな遊び,対照的に)黙って眺める.”)
私は“ 水に揺らぐ光 ”というような印象にはいっぺんも感心しなかった。“ エヴァンゲリオン ”テレビ版のオープニング第1画面に遇ったのが青い水滴かその水紋と水面越しのような揺らぎであったという点に(私はあの直後に現れるアヤナミたちのシルエットに関して以前一度述べた,)象徴というにも,先ず元型的な見方だった。しかし,彼女自身に‘ 私は光である ’という神的な確信が無かったのなら,あたかも私のあの99年“ 真っ青な光 ”が私自身のなにかではなかったように,それの出現する意味合い自体とはならなかったのだろう..(私が“ エヴァ ”を視たのは2000年以後,私は深夜居間で父親がその連続放送を視ているのを偶々みかけた時に,未だ不思議であった。)私は“ そのロングラストブルー ”とは言わなかったが..

[ 編著 ]ハンスカール・ロイナー
ギュンター・ホルン
エッダ・クレッスマン 他
[ 訳 ]岡田珠江
内田イレーネ 他
覚醒夢を用いた子どものイメージ療法 -基礎理論から実践まで-( 創元社,2009, )
Katathymes Bilderleben mit Kindern und Jugendlichen ( 1997, )