視覚のモノリス
その“ もうひとつの視覚( 原題:Sight unseen: , 2005. )”は,脳に因って知覚される視覚と,その視覚上の物体等との関係に手先の運動などをどう対応させ得るのかという,( 視覚とそれに対する動作などの乖離したかのような症例との研究で )説明しようとしたものである。
因って,その“ もうひとつの視覚 ”とは,その知覚の機能に障害を負ったひとが(どうしてか,物の輪郭が判らないのに)それを正確に掴めるといった,不思議のことだ。
だから,“見えない”のに“ sight ”と称するのは逆接的な言い回しである。
私は本来‘ 夢見 ’についての記録参照に留めるのだが,私の目に留まった“ もうひとつの視覚 ”という見出しでの自己参照について( 通常“ 夢の内容 ”という定義には当てはまらないが )現象に関して引用してみよう;

先ずは,その“ もうひとつの視覚 ”文中に夢見の活動(主に“ 手を視る ”)にとって参考になりそうな記述等を遡って,幾つか抽出引用してみよう:

..知覚は受動的なプロセスではない。私たちは単に、ある瞬間に網膜上に映っているものすべてを体験するわけではない。知覚とは、入力情報とこれまでの視覚体験から構成され保持されている鋳型との単なる照合以上のことである。私たちの“ 見る ”ものの多くは、そこにあるものについての最も有り得る仮説に基づいた内的創造物なのである。私たちは自分の周りに在るものを実際に直接見ることで初めてこれらの仮説が正しいかどうかを検証する。しかし,主観的には安定した完全な世界が視野全体に広がっていて、豊かな細部と意味を持っているという印象がある。

理論家の中には、私たちが体験しているのは(現実世界ではなく)ヴァーチャルな世界の表象だと主張する人もいる。彼らが言いたいのは、外界に関する知識が視覚入力だけでなく記憶にも基づいていて、豊富で複雑な体験を作り上げるのを助けている、ということである。
知覚が知識を形成するだけでなく、知識も常に知覚を形成している。

..知覚システムは、物体の不変な側面を取り出す必要がある。この不変な側面が外界に見える物体の云わばシンボルとして機能する。知覚システムは網膜に映った物体の個々の見えの詳細から自由でなければならない。..知覚システムが光景に基づく符号化と相対的な値を用いて現実世界の豊かで詳細な表象を形作っている。

光景の準拠枠は、知覚にとっては意味がある。というのは、その準拠枠によって、脳はすべての種類の情報を用いて( 物体と物体どうしの関係を認識し )次にそれらをまとめて光景の意味を知ることができるからである。要するに、知覚の仕事とは、外の世界についての有効な内部モデル( 表象 )を作ることである。そしてこの表象は私の心の視覚的基盤となり( 外界に在る物体やその因果関係について推論し )この知識に基づいてどの行為をするかを決めることが可能になる。
物体の大きさや位置、向き、形を知覚するとき、私たちは、暗黙の裡に、光景の中の他の物体との関係でそれらを見ている。これに対して、その同じ物体に手を伸ばして掴むときには、脳は、視覚的文脈( 則ち物体が埋め込まれている光景 )を考慮すること無く、物体そのものと、それと私たち( とりわけ,手 )との関係だけに焦点を当てる必要がある。別の言い方をすると、知覚は光景の準拠枠を使い、行為の視覚的制御は自己を中心とした準拠枠を用いている。
..まったく異なる準拠枠を用いて異なるやり方で外界を“ 見て ”いるのだ。

..実際のティーカップを持ち上げるのには何ら特殊な技能は必要としないのに対し、カップをイメージしながらこれと全く同じ動作をするには、訓練を積んだ技能が必要とされる ..机上の特定位置に置かれていたコーヒーカップを掴む振りをすることができる.. コーヒーカップを持ち上げたり..
( 時間と観察者 / 第6章 - )

私たちはコーヒーカップに関する視覚体験を意識することができるが、この体験カップを持ち上げるのを可能にする特定の視覚情報については何も教えてくれない。
“ 見ている ”ものについて話すとき、私たちは知覚システムが生み出したものについてだけ話している。
記憶自体もこれまでの知覚から構成されている。
視覚は、今ここだけでなく、時と場所を別にした“ オフライン ”でも役に立つ。そうすることで、視覚脳は見ている視覚的光景に関する豊かで詳細な表象を作り出す。
確かに私たちの行動の多くは感覚入力に強く制約されているわけではない。

( 知覚のための視覚 / 第4章 -)

手足の行動?
今回その“ もうひとつの視覚 ”に読んでみた限りでは,視覚的知覚“ ヴィジョン(認知)”と,手などの実際身体運動に必要な“ イメージ(描写)”とは,脳内情報伝達に於いてひとつの経路ではない,と示しているようだ。( 物体の輪郭など視覚的に把握できない患者が,その手で“なぞる”動きに拠っては正確にトレースしたかのように動かせた,という例。)
そう言えば,“ ルービックスキューブ ”試したときに連想してみたら。結局,その六面に現に移動しているカラー等の配列が正確に無ければ,視覚面との推理だけに苦労してしまう( それでも“ 合わせ ”が出来るのなら,ある程度“ イメージ ”可能というわけだが.. )
しかし,これらと読んでみたあとでも,たとえば眼前との“ 視覚的な刺激 ”反応に因って後付けされるようなもの自体は( ここでの夢見の本質にとって;)ある想起させる条件との記憶反復以上の点にはならない。
[ 脳の高度なデータ処理が可能だとして,たとえば 視覚的な情報一々ビットマップのフル動画みたいな形で記憶されるだろうか? 情報的には何らかの“ 既存参照 ”または“ ヴェクター依存( 要素別 )”の度合いも大きいのでは? ]

ある印象(現象)日記録からの引用:
2017-03-19 日付より) ..私がT中央図書館に再びクレーム票を出し始めていた昨年の頃、その公園内通路の図書館東側に,別の古い従業員出入口のようなコンクリート庇と薄いカーテン付きドアがあったのを視たと記憶していた。後日その場所に再び視ようとしたら、植え込み等の間にその建物との間隔地下へと下りていくためのステップと思われるものが封鎖されてあるきりだった。
[(2017-12-05 日付より,追記;)私には珍しい例として、通常の睡眠時間帯-夢からではなくもっと直接的にT中央図書館-東側にもう1つの古臭い出入口が在るという光景としての印象がいつのまにか遇った.. 私は実際そのものがその場所にあると思い込んだので、その扉とその反対側出入口とはまっすぐに通り抜けできるような従業員用通路だろうかと想っていたが、次回そこに視に行ったら植え込み等の間に鎖で禁止されているその地下へのステップのような形があるだけだった。その堀のように隔てられている向こう建物側ガラス越しに1Fフロア内部半分にお客たちのいるのが見通せるというだけで、そこには渡し連絡通路などは存在しない。当時私にはその造り自体が一方的に変だという見方もあったが。)私は解明できるかもと思う。もしその‘ 光景 ’が実際どこかに在ったのだとすれば、幼児期からの断片記憶だろう。]
私は滅多に場所的の幻覚みたいなものは無かったので、どうしてそんな記憶があったのかと不思議だ。私がその図書館に通ったのは2002年以降だったので、その辺にそんな古い造りを視たような憶えも無かった。案外はっきりとした実在的イメージと思われたので、睡眠夢のようなものだったかもしれない。

2017-07-23 日付) 私は今朝もうひとつの偶然的印象があったのと私のブログ更新後の帰り道で思い至った。
今朝5時まえからの自転車うんどう中の私がK山駅前に通り過ぎるとき雨が降り始めていてちょうどT中央図書館方向への途中( 流町 )で雨宿りしなければいけなくなった。私はそのまえにN駅方向からSH町-S橋西へと通った。おそらくそのあいだに建物等のひとつの前に薄茶色っぽい砂岩のような表面・噴水オブジェみたいな形状の物があるのを偶々みた。それで連想的にインドの“ リンガ ”のように石のまるみから水が湧きでているというイメージがあったのだろう。しかし、偶然に例のテレビ番組予告( 名古屋の湧き水 )と視たのは私がそのあと帰宅してから偶々だった。私はその時には“ リンガ ”想い出さなかった。
私の予想通り、T公園のその湧水というのはまさにあの地下へのステップ下辺りにあったようだが、私はあの地下のS店内には一度も入らなかったし,テレビに市役所職員が案内して映されていたような(ガラス越しにみえる)堀のような部分を視たような記憶も無かった。( 番組では語られなかったが、その水が常に流れ続けているならそれはどこかへ必然排水されていなければいけない. )

[ 上記(引用)日記分の収録本編: 幻像と記憶( そのページタイトル,:2017-03-19, 後日追記あり;)/ 明晰夢見の実践と理論