下層にある心理学的形態/ ..判断力と意思 [続き要約; 判断の本質,表象と意思について]

正常な人間と精神の衰弱した人たちとを区別するものとして,正常な人間は(どちらにも共通して持っている自動症活動の上に)何か別の付加的な活動を持っているという点が挙げられる。自動症は心理学的貧困状態にあって暗示に掛かり易い人たちの全体を彩るものであったが,それはまた私たちの習慣や情念に因る低次の行動としても存在しているものである。それらが意思というものに拠ってコントロールされているといってよい。この高次の意思的な活動そのものには触れてこなかったが,(この高次の活動が存在すること)それらがこれまで述べてきた低次の活動とどのような点で区別されるか、見てゆく。
意思というものの本性を説明するのは容易でなく、)意思的な行動がどのようなものなのかを記述することは極めて難しい。心理学者たちの間でこの意思を特徴付ける徴表に関して、意見の一致を見い出すことは殆ど出来ていない。
「(スペンサー,)下肢の意思的な動きとそうでない動きとの違いは、意思を伴わない動きがそれを行おうとする意識が前以って準備されていないところで起こるのに対して、意思的な動きはそれが意識の中で表象された後に起きるという点にある……」
「(ヴント,)意思的な動きに伴ってわれわれが持つ主観的特徴は、その動きがわれわれの意識の中で何らかの感覚に訴え、動きを引き起こす動因として先行していることである。」
バスティアンのような生理学者たちが、意思的行為は遂行すべき動きの観念ないし表象に先行されていると言っているのも、この意味に於いてであろう。ただこの定義を認めると、生き物が遂行する可能性のある動きすべてが意思的行動、ということになりはしないだろうか。
( これまで私たちが報告してきた研究で、夢遊病者でもカタレプシー患者でも、(遂行する行動に対する表象に先行され、)その表象を伴わない行動は無かったからである。)どのような行動も動きも、必ずそれを引き起こす表象が存在しているからである。
ロマーヌが動物の知性に関する著書で述べているように(デルブフが述べているように、)観念とそれに続く行動との間には、ある程度の時間的間隔というものがあって、その間隔が意思的行動の方では自動症のそれよりも若干長いという違いくらいではなかろうか。 意思的行動までの間に幾らかの躊躇ちゅうちょがあるのかもしれない。しかし、夢遊病者に暗示を掛けたときの明らかな自動症行動にも幾らかの抵抗があって、非常に緩徐なときがあることを知っておく必要もあろう。(躊躇とは)多くの観念が相互に対立し合うという葛藤から生じ、最も強い観念が勝利を収めることになるのであろうが、この葛藤は他の行動の場合と同じように、機械的な行動にも存在し得るのである。

多くの心理学者は、よく知られた努力感情という理論を援用している( 努力感情。sentiment de l'effort )私たちの行動には他の行動には無い努力感情というものがあるという考え方である。
「(レー・レジス,18世紀,)私の手に動きを与えるのが私とは別の原因に因るものだとしても……、やはりそれは自分の魂からの影響ないし努力に拠るものだと考えられる。誰かが動かすにしても、私の同意があるからである。誰かが私の手を動かしても、私自身が手を動かしても、そこに全く違ったものを感じるわけではない。手に重い物を持ったときも同じである。」
メーヌ・ド・ビランやその後の哲学者たちが(この努力という特異な感覚を巡って)一つの哲学を築いたのはよく知られている処である。ただ私自身としては、(ウィリアム・ジェイムズの論考が出て以降,"The feeling of effort")この理論を議論する必要も無くなったと考えており、実際それに対する反論も見当たらないようである。レー・レジスの語っている特異な感覚は(意思的なものにせよ、そうでないものにせよ)あらゆる動きに存在する筋感覚の総体であろうが、私たちが自分の手の重さを支えているときと、何か物を持ったときとでは、その筋感覚は全く異なる筈である。
いずれにしても、この努力は行為に先立つものとして必要なものである。
「(レー・レジス,)私の手が動くように誰かにお願いしても、手は動かない。如何に真剣に強くこの私の意思を繰り返しても、手は動かないままである。手が動くのは、特異な努力に拠って自分が運動力を行使するときだけである。」
ヒステリー患者が身体感覚イメージだけに依って手足を動かしている場合、そのイメージを失えば当然手足は麻痺する。そのような患者が視覚イメージに依って動きを思い描いても、瞼や目の動き、胸や腕の動き……などは出てくるだろうが、手足の動きは出現してこない。一言で言えば、(動きを考えることは)はっきりとした形でそれに相応しいイメージ群を思い描くときだけである。その動きは意思的行動であろうと自動症性のそれであろうと同じような形で出現する。
(意思活動は、)観念と行動との殆ど分かち難く結合している間に挿入されているものではない。観念そのものの中に(知的現象の中に)この意思活動を探ってみる必要がある。
「(エスピナス,)様々な形態をとる意思の中に、ある程度の差異が見られるのは、その意思が多様な表象に呼応するからである。表象は意思よりもはっきりしており、それだけでも他との区別が可能である。それ自身では拡散しがちな行動に方向性を与えるのは表象である。」
自動症性の行動は、知的現象の中に(2つの層に応じてその2つの様態として)現れることを提示してきた。ひとつは、断片的に孤立した感覚事象ないしイメージに相応したものを表現する。2つには、そのような自動症行動の上層に(ある活動が)生まれるためには、知覚そのものより高次な認識という現象が知性の領域に無ければならない、ということであった。

(続き;)

私たちは(自分たち自身の知性という領域に、)判断ないし関係観念が存在していると考えたくなる。この判断つまり関係観念とは、感覚事象やイメージ、知覚がただ単に相互に結びついてイメージ群を生んでいるものとは次元の異なる活動である。たとえば、類似を考える観念は、何か、あるひとつの感覚やイメージではない。類似が赤いとか青いとか、あるいは熱いとか音がするとかと表現することはできない。何かその種のイメージが加わって新しいイメージが形成される場合も、そこには如何なる形の類似も表象されることにはならない。類似観念は様々な感覚によって表象されるところ、あるいは連想や記憶によって経時的に表象されるところで現れてくるものであり、いつも同じ性質を持っているものではない。私がピエールとポールを見て思い浮かぶ類似は、ピエールに一致するものでもなければポールに一致するものでもない。この判断についての議論は今日の心理学の主要なテーマとなっていて、多くの心理学者が多彩な意見を述べている。実際、判断とイメージとの違いを無視すれば、意思的な行為と自動症性の行為との違いはみえてこなくなる。意志的行為は正に判断と関係観念を通して導き出されるものだからである。
日頃私たちは(暗示を掛けて夢遊病者に遂行させているのと同じような行動を)しているのであるが、私たちは自分の行為が意思的であり患者の行為は自動症的であると言っている。それは、行為遂行時の私たちの心に患者たちの心にあるものを超える何かがあるからである。私たちはその行為が有用あるいは必要と判断した上で動いている。患者は私の手の動きを自動症的に模倣しているだけであり、私の方は意思的に何らかのデッサンを写し取っている。患者は行為のイメージを思い描いて行動するだけで、そこには、自分が私の手の動きに類似した行為をしているという判断は無い。一方、私の方は類似とその根拠などを考えながら写し取っているといってもよい。
「(フィユエ,)模倣しているという意識が全く無いまま自動症的に類似した行為を行うのではなく、類似の意識つまり類似感覚を伴って行為するとき、それは極めて反省的統覚的なものとなる。」
患者たちが何らかの言葉を発してもその言葉は心を通り抜けてゆくだけでそれ以外のことを考えているわけではない。一方、私たちが言葉を発するのは(それが真実である、と)判断しているからである。判断が行為を生み出すという判断の本質を考えるまえに、先ず私たちはこれまで述べてきた意思活動には必ず判断が介在しているということだけを押さえておきたい。

では、判断という現象がどのようにして活動性を引き出すのか? 判断は(知覚されたものやイメージが特異的な動きに翻訳されるのと同じような仕方で)動きになるのであろうか? この点ははっきりしていない。美とか真実とかいった類似観念は、それがそのまま何らかの動きに結びつくわけではない。(多くの著者が述べているように、)関係観念が何らかの言葉の発語に結びつくというのは、安易過ぎる言い方であろう。そうであるならば、関係観念は発語以外の行為を引き起こさないことになるが、この関係観念がいろいろな行動を引き起こすことはよく知られている。発語は(類似という言葉の)視覚ないし聴覚イメージを通して導き出されるものであって、その言葉の表す関係観念に因るものではない。私には関係観念というものはそれ自身動因となるものではなく(私たちの中で立ち止まり結合して数々のイメージを新しい形に統合しそれを動きの動因にするものだ)と考えたい。意思的努力というのは、まさにこの統合作用から成り立っており、自動症的に現れてくるイメージや記憶をひとつの関係の中に結びそれらをまとめるところにある。これまで患者たちの中に見てきた統合減弱は、個人的知覚を形成する原初的要素的な統合を阻むものであった。他の多くの著者たちも、注意力が生まれ保持される心理学的機序には十分考察を施してきた。が、この注意に含まれる判断の役割には注目してこなかったように思われる。しかし、本来の意味での意思的注意を特徴付けているのは、判断という力であろう。
最後に、意思活動と意思的信念との間には大きな違いは無さそうだということに触れておきたい。そのどちらにも知的判断は働いており、その判断が、一方では行動により、他方では単なる言葉によって表出されるイメージを強く結合させているのである。

この判断に拠って導き出される意思活動のメカニズムがどのようなものであれ、そこには多くの特異的な特徴が見られる。先ず挙げられるのは、自動症性の活動よりも高次な統一と調和とを備えているということ。自動症活動は脆弱な統合から成っており、同じ形で長期に持続するということが無い。ある知覚事象を表出する、次にはそれと関係の無い知覚事象を表出し、全体から見ると秩序の無い移ろいやすい形をとる。実際( 夢遊病者に暗示を掛け )その暗示行為の遂行が2週間も続くというのは有り得ないのではないだろうか。それとは逆に、本を出版する-何らかの企画を実行する-といった意思的決断が幾年も続けられるのは稀ではない。判断の主な特徴は、それが正しいにせよ誤ったものであるにせよ、私たちが自分の心理現象に付与している統一性であろう。私たちは自分の統一性に意を注ぎそれを育んでいる。自動症活動が人間を多様に異なる心理的存在の流れに曝しているのに対して、意思的活動は私たちの心に統一性を持続するようにしており、哲学者たちの理想であるところの、魂はひとつであり同一である、という理念を実現しようとするものである。
行為というものは多彩なイメージから導き出されるものだけに、それは必然的に個人的なもの、当人にだけ関係するものである。実際、知覚事象やイメージは常に個人的な現象であり、当人の外部にその存在や価値を持つものではない。しかし、関係観念が生まれると、それは別の自体をもたらす。関係観念が一般性を受け入れるからであり、その観念は同じ状態に留まりながらも多種多様な事柄との関係を築く。類似の観念から導かれた活動も広がりを持つようになる。多様で特異的な心理学的事象という要素で構成されながらも、この活動はそのあらゆる動きに共通する形や方向に沿いながら、ひとつの方向、ひとつの一般的射程を持つようになる。演説化の発するそれぞれの言葉がそれぞれ特異的な事象を含みながら、そのフレーズが普遍的な概念を生む。科学的発見や芸術作品を生む行為が普遍性をもたらすのと同じである。自動症性の行為はそれ自身の外部に何の価値も生み出さないが、意思的な行為は美と真実と人間性を帯びたものになる。
自動症性の行為は、すっかり規定されてしまっている行為である( それは患者の、変わることの無い心理事象がそのまま表出される。)その行為は断片的なイメージに導かれていたり、多くの心理事象、心理状態の結果によったりするもので、多少の複雑さを帯びているにしても、やはり規定され容易に計算できる類いの行為である。しかし、この行為が判断や一般性を持つようになると、何らかの独立性を獲得するようになる。おそらく、その行為は判断そのものを翻訳したものになるであろう。どんな動きも観念を離れては現れてこないし、この2つは同一のものであって、違った観点からみられているものに過ぎない。ただ、この判断はこれまでのイメージや心理状態には含まれていなかったものである。それは、意識そのものと同じように、予期できない常に新しい心理学的な事象であり、(機械的動きという現象の只中に現れ、)それには規定されない自由な何かなのである。人間の行為が自由でありうるのは、その行為が知的で人間的だからである。それ以外の自由は無い。絶対的な意味で言っているのではなく、相対的に理性と人間科学の名に於いて、自由とは予見できないもの、その予見が私たちには不可能なものなのだということである。

[著者]ピエール・ジャネ
[翻訳]松本雅彦,
心理学的自動症(みすず書房,2013)
L'Automatisme psychologique (1889,)