読書記録5-(1)(2): 自分さがしの瞑想 ひとりで始めるプロセスワーク / アーノルド・ミンデル

(1) 動き増幅する
“夢”は時に身体の病状を表す訴えである。
“雑念”排除する従来の瞑想法ではない(先ず衝動のなんなのかを認める。)
“緊張”抑圧しない。

こういうワークに読んでみると(その本は‘内的’ドリームボディについて言っている,あたかも体の自然表現することに関して?)
例えば私の場合,あの“路上-笑い子たち”には(たとえに今ミャンマーでおこっていることみたいな)抑制するだけの取り締まり警察型と強圧しない方が良かったのだろう。厳しい取り締まりが一見精神的に“撲滅-成功”した! それは“抑圧-拘束期間”を長引かせたに過ぎ,少年は未だに凹まされている.ある戒厳令に依って50年も一国を統制できると-(‘夢見の実践’自体が安全であれば..)
自然に起こること自体は善悪の問題ではない。
どんな材料も増幅してみる。
〈 何かをしているひと(わたし,自我:一次プロセス)/それを見たり感じたりしている,無意識的(:二次プロセス)夢,ヴィジョン,投影..(-気を散らせる.)/公平な観察者(両方の知覚や洞察について語る。)〉

視覚,聴覚,動作など,感覚チャンネル等(利用し,内的ひとつに)還元する。

しばしば心の中の対話は、止まることのないおしゃべりのようなものです。止まることのないおしゃべりが続くのは、聞いてもらえないからであることがよくあります。..

自動-チャンネル切り替え(いま自然に起こっている動き,増幅してみる)反発-抑制しない。
(その著者の体験一例)..私は、不安を感じながら山道を駆け登っているとき、ふと、何かが私と一緒に走っているような気がしました。きっとそれは木の影だろうと思ったのですが、驚いたことに、影は私とは反対方向に走り始めたのです。
そこで、私はまず、この影は何なのか、その正体を見定めて、消してしまおうと思ったのです。きっとそれは、木の影か道路標識だろうと思いましたが、しかし、こんな荒れた山中には道路標識などあるはずないではありませんか。
「そうするとこの影はほんとうにスピリットだ! これは山の亡霊かもしれない」と思い、私はぎょっとしました。そして、もしかすると殺されるかもしれない、と怖くなってしまったのです。
そのとき私は、自分の中の何かを統合すれば、亡霊の力が弱まるということを思い出し、あらん限りの勇気をふりしぼって、チャンネルを変えようとしました。私はいま、視覚チャンネルを使って影を見て、怖くなっていたのですから、今度はからだの動きのチャンネルに切り替えよう、と思ったのです。私が自分を変えないならば、その亡霊が私を倒してしまうだろうと思いました。
そのとき、私の全身は恐怖におそわれ、からだ中、びっしょり汗をかいていたのですが、それでも勇気をふりしぼって、道の反対側へゆっくり歩き、亡霊のいた場所へとジャンプしました。そして、亡霊が動いたのと同じように自分も動いていったのです。それから、その影を最後に見た場所へと次々に移動して行き、私は、その影に導かれて山道を駆け下りていたのです。こうして私が動き始めると、いつの間にか走ることがダンスへと変わり、恐れは楽しさへと変わってしまいました。
..

同著者“プロセス指向心理学(River's Way, 1985)”が例の象徴-概念的な,近づきにくい版だったとすると,体験的な処からのやさしい語りかけといった,より読みつき易い,わかりやすい版。
[ 私は今日これを書いたあとで“ドリームボディ・ワーク”を借り出した。そう言えば,先週私は“シャーマンズ・ボディ”を借りるつもりだったが,その朝方,不意に,“だれかが急激に(その本を)借り出した”と言った。私はそのようなおはなしに余り鵜呑みにもしないが,ある予定がその通りにならない場合に関して当たったという数も無くはない。その日,図書館で検索してみたら,その前日どれも“在庫”だった(私が借りようとしていた数冊の)その一冊だけが“貸出中”となっていた。]
“ドリームボディ・ワーク(Working with the Dreaming Body, 1985)”,同じ春秋社によるミンデルからの翻訳版でも“24時間の明晰夢”に遭ったような素人っぽいイラスト挿入などが無くて,デザイン的には私好みに近い。例に,もしラバージ“明晰夢”のページに中途半端なイラストレーション類が付いていたら,あのとき私は触れなかっただろう。)

[ 追記: もし今これをお読みで,“ 実践 ”という面から初めてミンデルの本どれかを読んでみたいという方には(どれも下手なイラスト等の必要性は私には不明ですが.,)“ うしろ向きに馬に乗る ”がワークショップからの内容本意という体なので(他タイトル等との比較では,)それ迄の用語等がその場的に参加者向けに同時説明されているという点で,わかりやすいと私は思います。]


(2) エッジ
( チャンネルの転換でエッジを超える / 第6章 エッジ:
ある女性,瞑想最中にうとうととなり突然-稲妻のヴィジョンが遇った。彼女は何かに気づきはじめたと感じた。その稲妻のヴィジョンに注意を向けて増幅してみた。突然“ 過去をころせ……稲妻のように ”という声が聞こえた。彼女は疲れていてその言葉には従えない( -限界,エッジ. )
彼女は繰り返しその言葉の調子を増幅した。疲れが戻ってきたが,彼女は自身からだに注意を向けた。)
..彼女はからだを感じ、彼女のからだが魚のポーズと呼ばれているヨガのポーズになっていくのに気づきました。彼女は魚のポーズをとり、さらにもっと骨盤を開いてそのポーズを増幅しました。すると彼女は突然、鼠径部の発疹に気づきました。痛い……あっ! 彼女は気づきました。稲妻は、今度は激しい発疹として鼠径部に現れたのです。このように、同じメッセージが、ビジョンと声と発疹の中に現れたのです。..そのチャンネルを発見して、そこで起こっているできごとを増幅してください。もし急に内容が変化したりチャンネルが切り替わるならば、そこにエッジがないかどうか確かめてください。あなたは何かを避けたいと思っていましたか。

私はいつもお茶を浸出するには調理用の鍋を使ったりする。それで,私がペットボトルに移そうとするとその液体が鍋からまっすぐに流れなくて,こぼれてしまう。私はしばらく毎回その鍋の角度やその液体の分量がうまく調節されないからだと思っていた。確かに,より慎重に私の両手をできるだけ支えとして鍋を動かせば,失敗しないようだ。
しかし,私は不図,感覚的にその液体自体その液体自体の自然な動き重さを間違えなければ,それ自体の流れに因って(私の“両腕-注意”に依らなくても,自重に因り)本能的に処理できる! そう言えば,私は自転車を動かしているときにも同じだった。いや,私が“ 動かす ”とは言っても,自転車の車体自体は見かけに移動するだけ,実際にはどれも慣性だから,なにも“ 自転 ”するわけではない(“ わたし自転車 ”の意味?)既製の日本語みたいに言えば,“ 自転車ペダルを漕ぐ ”という言い回しが,ある抵抗力を表していたので,あたかも“ 肉体でエッチをする ”というセンシティヴな試みだったかのようだ。
私はプロセスワークの“ ある知覚に増幅してみる ”というワードには未だにぴんと来なかったのだが.,もし(私が強いて観察してみるというよりも,)“ ある川の流れ ”自体という意味なら? あるものや動き自体の論理性として自然にみれば,“私”として間違うことも無いのだろう。

“ 水の流れ ”と言えば,ここでの読書先例“ 覚醒夢を用いた子どものイメージ療法 ”に,ある10歳男児のイメージ像について語られている行に,ちょうど“ 制御不可な水流 ”を言っている部分が遇った;
..すなわち森からイノシシとマムシが出てくる。彼はとてもびっくりして逃げる。そのとき近くに流れる小川にあったボートを見つけて、それに乗る。ここで再び彼の不安な体験が象徴される。小川の流れは非常に強く、ボートのコントロールがなかなかできない。ボートは沼にたどり着き、そこから先に行けない。..
私はその“ 行き止まり ”には察しが付かないのだが( その男児は4歳時の包茎手術が年齢的に他の出来事と重なってトラウマとなったという。“ 森から出てくる危険な生き物 ”こそがなにかを表した- )ある意味,自身として肉体自体に正常なコントロールができないという場合の問題が表れたのかもしれない。

投射のエッヂは危険?
ミンデルさんの“ エッジ ”とは,内的な(見えない動きとの問題)限界だった。ある生命的なエネルギーや動きに外的な観察や強制を課しても,それ自体は解消しない。先ずそれのなんなのかが本能的にわからなければ,それ自体の理由にはならない。
私の投射限界(偶像の)という意味でのエッヂについて,検証してみよう。
もしヴィジョンやイマジネーションに際して腹立たしかったり物悲しかったりするなら,それとの“防衛”が存在する(原因が反対に守られている。)本当に無関心なら,“かれらの関心/わたしの無心”という絶対にの言い訳にはならない。(-内省的である程,この反対の感情傾向は強いだろう。)内心に動くものと,身体-発展的の方向とは,矛盾するだろうか? “外界”物理的な扱いが,身体とのメタファーであり,仮にすべてが自動対象化されているなら(それらが逆に自己投影する,)いわば投射限界だという見方になる。“霊的”投影されていると言うべきもしれない。 ( 続く, )

Working on Yourself Alone, Inner Dreambody Work (1990,)