読書記録9:「あっ、忘れてた」はなぜ起こる - 心理学と脳科学からせまる(,2007)/ 梅田 聡

このあいだ,サン=ドニ著“ 夢の操縦法 ”久しぶりに借り出してみた〔;サン=ドニ著には夢見に関しての文化史的な処があり,日本語訳された当書にも人物伝記的な扱いがされた( その著者自身が“ 眠りと夢 ”論文コンクールへの応募を検討してのものだったそうだが.,その精神アカデミー主催のコンクール主旨として“ 夢遊症状態 ”や“ 催眠術状態 ”に関しての現象研究,できれば理論化までが目されていたようで,“ 夢の操縦法 ”第2部などはそのための追論として網羅された歴史的な概観かと思われる。 )当初,私としてはそのようなカルチャーライズされた著述の面には読み跳ばした嫌いが遇った。個人記録的な夢見研究のひとに於いては文献類の見当は三次というのが当然だった。〕

そのサン=ドニ著が一節に昔ヒポクラテスが“ 夢 ”に関して述べたという一文が書かれて遇った;
自然の夢に於いては、精神が肉体から影響を受けたものが視像となって現れるのである。われわれの体のどこかに障害があった場合、その精神的反映が夢となって現れる。この偉大な観察者は、医者や哲学者たちに貴重な発見がどうしてできたのかを示そうと、おそらく人間が夢を見るようになって以来頻繁に夢を見る人びとについての,医学的観察を要旨にまとめたのである。
[;“ 能動的明晰と想像夢(meisekiyumeminogihou)”という引用集に,そのサン=ドニ著での“ 精神現象,感覚と思考の夢 ”に関する観察(一部分,)がある。]

うっかり(absent-minded)エラー ”のなぞ?
その折,偶々その書棚に心理学との近接した書類などが置かれてあって,ちょうど“ もの忘れ ”に関するタイトル等が遇った。-なんで私は“ 夢見の意と ”を一々に思いだせないか? そこらじゅうになんらかと拡散させるような要件が? しかし,それらにも関わり無く,夢見-条件点けできたに違い無かった,私は。
余りページ数や専門的すぎる検討が必要な内容には手が出なかったので,先ず読み通せそうな今回その“なぜなに”本と,“ もの忘れの脳科学 ”という題名( どちらも厚さ7mm位,岩波科学ライブラリー,講談社ブルーバックス. )

必須が深慮
“ うっかりミス ”には,先ず展望的記憶(prospective memory)の失敗という語彙である,と。“ 意図の想起 ”について,(ある心理学者が唱えた)満たされていない意図の存在との-心的な緊張が-その想起の可能性を高めるという。
“ ..存在 ”! 私もあのモートンプリンス著のように自己観察との存在について深慮が必須であったのか?
たとえば“ 恐怖や悲しさの感情などが,それらとのびっくりや泣くという反応を起こすのではない ”という説があったと。びっくりや泣くというような,ある身体的反応が,恐怖や悲しさを起こすのだ,と。
その簡単な一節に,一瞬私は“ 恐怖や不安(への欲求)”という見方を思った.. 先日,あるテレビ番組の肝試しスポット歩きのような一場面,あるお笑い芸人の女性ひとりが“ パンツ引き込んだ! ”と( なにか昔の台詞かのように )発していた。よくホラー映画の類いを怖がるといった“ 心理 ”にも,研究の至らなかった点がある。テレビと言えば,最近また殺害事件や偶発事故などのニュース放映に度々視られる,路上なにか朗らかそうな笑みとともに答えているのがその目撃者や被害者の親類であったりするという不思議な絵( あたかも通常の感情的反応は無関係だといったかのよう.,)“ 戦慄 ”の正体? “ 悲哀いっぱい ”とは?

これは今“ 明晰夢 ”ではない?
当書は“ 若年と壮年のし忘れ度は違わないが,壮年が記憶のためにメモ類など補助を定期的に参照するので,実際には行動忘れになる頻度は若年よりも少ない ”という(?)
私は矢張り自身にとっての関心-無関心や重要性が優先するのだと思う。ただ,認知-不認知の問題として言えば,年齢とともに,例えばテレビ画面に偶然表示されたりナレーションされたりしているあいだの単語かなにかを(それとは手前に意識しないままに)なにか自身の言葉であるかのように発してしまうという,中年以降には当たり前のような“ 無自覚症状 ”もあるので,より若い世代が老人たちに苛立ったり失望したりという大問題が2038年を迫るであろうと思われる。
( 依存的な慣習のひと程“ 自動的なんとか ”に任せてしまい,“ 自発的作業 ”が無くなる。 )

不図に憶い出されるという意味での“ ポップアップ現象 ”には必ずなんらかの“ 入力 ”があったに違いないという示摘は,夢見者のための実践研究に重要な点である。なぜなら,“ 情報 ”が自動的-無自覚に入力されたらそれが“ あるポップアップ ”されるという見込みも無かったからだ。単に“ この意図が効いたからこれを憶い出せた ”という主張だけでは説明されていない( ,このまえ私は参考としてユングのコンプレックス説などに読んでみようとした。心理的なメカニズムとしてこれに応用できないだろうか?と思ってみたが,理解されない心理学的な現象の類いはむしろ違う時空間とのあれみたいに,ある自体の表現されたかのような相となるので,観察者が直接コントロールできない“活動”要因という言い方になったかも知れなかった。
もし“ 明晰夢見 ”に結びつくだけの自動的なコンプレックスが(無-意識について)作成可能だとしたら,本当に24時間-365日これが機能する可能性がある。 )

(2)
子どもの発達と展望記憶という節には,なにか有用な展望が次のように述べられている;
子どもにとっても‘これからやることを覚えておく’ことは、社会的なコミュニケーションの獲得という観点から、極めて重要な意味を持っている。しかし、未来に類似した行為が起こることを予想し、それに向けて、現在起こっていることを記憶に留めておこうと考えることは、未来という時間的な流れを理解していることを示すと同時に、‘社会性の芽生え’とも捉えられる重要な発達的側面を反映している。
;「お店でミルクを買うことを(ママに)伝えてね」と,母親が幼児に言っておく(子どもが思い出せるか,)という実験の例など;
子どもに対して、焼き上がるまえにケーキをオーブンから取り出させる課題と、バッテリーを30分間充電させる課題を実験室と自宅で行わせた。その結果、意図の形成時から実行時の保持期間中に時計を見る頻度が実験室と自宅とで異なり、自宅での頻度の方が高いことが示された。これはまさに、自分の家のような慣れ親しんだ環境では、タイミングよく思い出すために、時計という外部補助をうまく使うことができることを表している。
;と,おそらく重要であると思われる点を述べている。詰まり,これから私のこととして言うなら,もし私が自家の環境に於いて‘よし,明晰夢を見よう!’と自身に命じるときには,その母親役が子どもたちに頼んだように,簡単に‘これから夢の最中に私が眠っていたら,必ず“夢だ”と言ってほしい’と伝えればいい。